今日のできごと


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2020/5/13(水)

 

愛はねたまない

1.愛はねたまない

 コリントの信徒への手紙1には、愛についてその内容が列挙されています。
 全部で15項目が、列挙されています。
 そのうちの3番目が、「ねたまない」です。

 愛は...ねたまない。
 コリントの信徒への手紙一 13章4節(抜粋)

ねたむ
ゼーロウ

ねたむ【動詞】

@熱心に燃える,熱心に勉める,
 熱心に求める,熱心に慕う.
 (善意からの熱心)
Aねたむ,嫉妬する
 (悪意や憎しみからの熱心)
引用:織田昭編 新約聖書ギリシャ語小辞典 改訂第4版

 「愛はねたまない。」の「ねたむ」という言葉は、
 英語の、「ジェラシー」の元となっている言葉です。
 「人に対する悪意によって、熱心になること」という意味になるようです。

 「何で、あの人ばっかりあんなにいい思いをしてるのか!」
 「私だって、こんなに頑張ってるのに...」
 「今に見てろよ!いつか必ず見返してやる。」といって熱心に勉強や仕事をする、

 これがねたみです。

2.ねたみというのは、熱心な行動の動機が悪意

 「熱心に勉強や仕事をする」その動機が、悪意そのものなのです。
 人よりも自分が上に立ちたい、目立ちたい、尊敬されたい、愛されたい、
 これは、「自己中心」そのものということになります。

 自己中心は、他人のことよりも自分のことを考えます。
 自分がいつでも中心で、自分がいつもみんなを支配して、
 自分が誰よりも重要でなければ、気が済まない、

 自分の好みが優先されて、自分の好きなように、
 自分がやりたいようにしかしたくない、
 だから自分よりも他人が重んじられると、気が済まなくなるのです。

 隣人の成功や、隣人の幸福を、素直に喜べなくなってしまうのです。
 自己中心同士が互いに集まると、どうなるでしょうか?
 必ず、争いになるのです。利害関係がぶつかってしまうからです。

 ねたみや利己心のあるところには、
 混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。
 ヤコブの手紙 3章16節

 ねたみや自己中心のあるところには、
 混乱やあらゆる悪い行いが、存在してしまうのです。
 一方、このような「ねたみ」に対して、「愛」はその逆になります。

3.愛はねたみの逆

 愛というのは、自分に死んで、隣人を生かすのです。
 隣人が幸福になるために、自分を使っていくのが愛です。
 自分が損をしても、隣人が得をするようにしてゆく、それが愛です。

 そこに、ねたみはありません。「自分が」がないのです。
 イエス・キリストの十字架が、まさにそうでした。
 イエスは自分が死んで、私たちを永遠に生きるようにして下さったのです。

 愛も、熱心な行動がそこについてきます。
 しかしその動機が、「ねたみ」のような自己中心的な動機ではなく、
 「隣人の幸福を求めるため」「隣人を生かすため」という良い動機なのです。

むすび.ねたみを捨てて隣人愛に生きる

 私たちは、自分のことではなく隣人のことを考えて生きるべきなのです。
 自己中心は、愛の逆でねたみを生じさせます。
 自己中心は、罪なのです。

 罪から離れ、隣人を愛して生きるとき
 そこに隣人に対するねたみというのは、存在し得ないのです。
 もしそこに、ねたみが少しでもあるなら、それは愛でも何でもないのです。

 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、
 ペトロの手紙一 2章1節

 ねたみは、捨てなければならないものなのです。
 ねたむ思いがやってきたら、神に「ねたみを捨てられますように」と祈って
 完全に、捨てていきましょう。温存していてはなりません。

 ねたまない人生、それこそが本当の幸いな愛の人生なのです。

 【今日の聖書】
 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、
 へりくだって、
 互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
 めいめい自分のことだけでなく、
 他人のことにも注意を払いなさい。
 フィリピの信徒への手紙 2章3〜4節


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