イエスはひとりで祈られた
1.イエスはひとりで祈ることの重要性を示された
イエスは、頻繁にただひとりで祈っておられました。
ゲッセマネの祈りの内容は、記されていますが
それ以外の場合のひとりで祈られた祈りの内容は、ほとんどわかりません。
十二弟子をお選びになる前の、徹夜の祈りも、
「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」
としか記されていません。その内容は、わかりません。
おそらく、誰を選んだらよいかという祈りだったと予想されますが、
具体的にどう祈っておられたのかは、不明です。
ひとりの祈りというのは、他の誰にもその内容がわかりません。
ひとりで、具体的に何をどう祈られたかを知ることはできませんが、
神と一対一で祈ることの重要性は、ここから教えられます。
神と向き合って、ひとり静かに祈ることはとても重要なことです。
2.祈りは本音をぶつける神との対話
祈りは静かでなければならない、というわけではありません。
声を出して祈ることも、ときには大声で祈ることもあります。
苦しいときは呻き嘆きつつ祈りますし、喜び叫びながら祈ることもあります。
祈りの形よりもむしろ、その内容が重要です。
何を祈るか?
本音です。
一番親しい人には、本音を語ります。
自分の本心で話をするのです。隠していても気づかれてしまい、隠せないのです。
それでも、本心すべてを話せるかというとそうではありません。
神の前に隠し事はできません。神は私の本心を全部知っておられるのです。
本心で祈るのです。自分の言葉で、本音を神にぶつけるのです。
親しい人にも黙っていることであっても、神にはそのまま語るのです。
本音を神にぶつける、これが祈りです。
誰もが、いつでもどこででもできます。だから、絶えず祈りなさいなのです。
できない難しいことを、神に要求されているわけではないのです。
人に隠している罪があったら、その罪を告白して祈ります。
「このことを祈らなければならないから祈る」というものではないのです。
神に信頼して、何でもいつも祈りによって神に語ってしまうのです。
「神様、私はこう思うのですが、違いますか?」
「こうあるべきなのに、なんでこうなっているのですか?」
「私は本当はこうありたいのに、それができません」と祈ればよいのです。
3.ゲッセマネの祈りこそイエスの本音の祈り
「この杯をわたしから取りのけてください」というゲッセマネの祈りは
イエスの本心でした。「杯」は「十字架」のことですが
父なる神の御心は「杯を飲め」でした。すなわち「十字架にかかれ」です。
けれどもイエスの祈りは、「この杯をわたしから取りのけてください」
なのです。「十字架刑をわたしから取りのけてください」なのです。
十字架刑は神との断絶を意味します。愛する神に見捨てられる刑なのです。
イエスが、「愛する父なる神との交わり」を絶たれることを、
ご自分で、望まれるはずがなかったのです。
この十字架という杯を、拒まずにはおられなかったのです。
しかしそれ以外に、全世界の人々を救う道はなかったのです。
その杯を飲む以外の道は、存在し得なかったのです。
ゲッセマネの祈りは、イエスの本心の祈りです。
むすび.本音を神にぶつけよ
私たちも、本音を神にぶつけるのです。
罪人でない日は一日たりともありませんから、きれいごとではありません。
絶えず湧き上がる、罪の思いとの戦いなのです。
戦いに勝つためには、祈らないとなりません。
「神様負けそうです、今すぐに助けてください」と祈るのです。
本音の祈りは、ひとりでなければ祈れません。
どうしても人が聞いていると、形式的な代表の祈りのようになってしまいます。
人に聞かれたらとても祈れないようなことを、ひとりで祈るのです。
人に聞かれたくないことであっても、ひとりでなら祈れます。ここが重要です。
ともに祈ってくれる誰かがいなければ祈れない、というのではなく
ひとりでもしっかり祈れるように、ひとりの祈りを習慣化していきましょう。
本音をぶつけるのなら、いつでもできるはずです。
それこそ、神との親しい交わりです。
祈りは神との親しい交わりなのです。
ともに心を合わせる祈りだけが祈りでは、ないのです。
【今日の聖書】
イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。
ルカによる福音書 9章18節(前半)