何しに来たのか!
1.ヨブは冤罪で責め立てられた
ヨブの親しい友たちは、ヨブを慰めにきて
結局、ヨブを冤罪で攻め立てて苦しめてしまいます。
慰めに来たのに、やったことはその逆でした。
「何しに来たのか!」と、問わずにはいられないような出来事ですが
ヨブは彼らを追い返すこともせず、最後まで彼らと論じています。
短気な人だったら怒って、「もう帰ってくれ」と言っていたことでしょう。
しかしヨブは、友人たちに対して「帰れ!」とは言わず、
最後まで彼らと語り合っているのです。
そこに、友人たちに対するヨブの忍耐が感じられます。
2.人が罪に陥る過程
けれどもヨブは、彼らの執拗な冤罪による裁きの言葉によって、
ついに、神に対して罪を犯してしまいます。
「自分は正しい、神が間違っているのだ」という意味の言葉を語ってしまうのです。
ここから、人が罪に陥る過程の一端が見えてきます。
@冤罪に対する弁明
自分がやってもいない罪を、「あなたがやったに違いない」と言われた時
人はその弁明を語ります。「私は、そんなことはしていない」と語るのです。
A自己正当化
それでも裁きの言葉が続くようなら、
自分がやっていないことを、何とか理解してもらおうと
「自分は正しいんだ」という主張が強まります。
B自分以外に対する責め立て
理解されず罪を着せられるようなら、今度は
自分に濡れ衣を着せた人など外の人を、責めるようになります。
私を罪に定めた人が悪い、彼こそが裁かれるべきだとなってしまうのです。
そして最終的には怒りと、憎しみ、恨み、報復へと人を誘うのです。
神に対しても、こんな苦しみに合わせた神が間違っている、
私が正しいとなってしまうのです。
こうやって、罪を犯すように引きずり込まれてしまうのです。
3.冤罪でみんなから責め立てられたら罪に陥る
「冤罪は、正しい人を罪に誘い」ます。
犯してもいない罪を責め立てると、責められた人は耐えきれなくなって
違う罪を犯してしまうのです。
特に、複数の人間から責め立てられ、自分を弁護してくれる人が誰もいないと、
罪に陥る可能性が、高まります。ヨブの場合は、3人の友と一緒にいましたが、
3人全員で、ヨブを責めているのです。
誰一人、ヨブの側に立ってくれなかったのです。
3人とも、間違っていたのです。
これでは、さすがのヨブも耐えきれなかったでしょう。
この3人の友人たちの姿を見るときに、
状況だけで判断してしまうことの恐ろしさを、見ることができます。
状況だけで因果関係を判断してしまうと、しばしば間違います。
誤解を生むような出来事が、しばしば起きているのです。
実際は違うのに、間違った推測をされてしまうのです。
冤罪の被害者にとっては、実に悲しいことなのです。
むすび.
ヨブでさえ罪に陥ったのですから、私たちはもっとたやすく陥るでしょう。
ありもしないことでみんなで責め立てれば、人は容易に罪に陥ってしまいます。
安易に、良く知りもせずに人を責め立てることに対する、大きな警告になっています。
では、冤罪で責め立てられたときはどうすればよいのでしょうか?
主はこのようにヨブに語ってから、
テマン人エリファズに仰せになった。
「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。
お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。
ヨブ記 42章7節
ヨブを責め立てた友人たちの言葉を、神はしっかり聞いておられたのです。
そしてその言葉に対して、神ご自身が正しく怒っておられたのです。
そして神が彼らを正しく裁いて、語って下さっているのです。
私たちが、もし冤罪で責められるようなことがあったら、
このことを、思い起こすべきです。
神が聞いておられ、神が怒られ、神が正しく裁いて下さるのです。
その信仰が冤罪の場合、試されるのです。
イエス・キリストの十字架こそが、その最大の模範なのです。
【今日の聖書】
「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、
正しくお裁きになる方にお任せになりました。
ペトロの手紙一 2章22〜23節