自分の罪を認める
1.聖書を学んで実行しようとしていたのに天国に入れない
ファリサイ派の人々や律法学者たちは、真の神を信じていました。
そして神の言葉である聖書を学んで、それを実行しようとしていました。
律法学者という程ですから、聖書の律法をよく知っていたわけです。
そして律法を調べて、それを知るだけでなく実行しようとしていたのです。
「安息日は絶対厳守だ、何も仕事をしてはいけない」と堅く信じて守っていたのです。
それでも、イエスは彼らに対して「天国に入れない」と言っておられます。
律法学者たちとファリサイ派の人々、
あなたたち偽善者は不幸だ。
人々の前で天の国を閉ざすからだ。
自分が入らないばかりか、
入ろうとする人をも入らせない。
マタイによる福音書 23章13節
はっきりと、「自分が入らないばかりか」と断定しているのです。
神を信じ聖書を学んで、それを実行しようとしていたにも関わらず、
天国には入れませんと、断言されているのです。
2.なぜ聖書を学んでいたのに天国に入れないのか?
なぜでしょうか?
ファリサイ派の人々や律法学者たちが、ことさらに罪深かったのでしょうか?
罪という点では、すべての人が罪人ですからみんな同じだったはずです。
その人たちだけが特別に罪深かかったということは、なかったはずです。
むしろ、殺人や姦淫や強盗などの実際の犯罪などに関して言えば
そんなことは決してせずに、模範的な生き方をしていたことでしょう。
けれども、イエスは彼らに対して「天国に入れない」と言っておられるのです。
一体、何がいけなかったのでしょうか?
彼らが天国に入れないと言われていたその理由は、何なのでしょうか?
3.律法学者たちは自分の罪を認めようとしていなかった
律法学者たちとファリサイ派の人々、
あなたたち偽善者は不幸だ。
杯や皿の外側はきれいにするが、
内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
マタイによる福音書 23章25節
それは、「あなたたち偽善者は不幸だ。」という言葉に表されています。
偽善すなわち、本当は正しくないのに正しいと見せかけていたというのです。
ファリサイ派の人々や律法学者たちも、心の中は強欲と放縦で満ちた罪人なのに、
「わたしは罪人でなく正しい人間です」と認識し、人にもそう見せかけていた点が
大きな間違いだったのです。それこそが、天国に入れなくする致命的間違いだったのです。
罪人にもかかわらず、自分の罪を隠して正しいふりをしていてはならなかったのです。
イエス・キリストがこの地上に来られた目的は、罪人を救うためです。
罪人の罪をゆるすために、十字架にかかって身代わりに死なれるために
この地上に生まれて下さったのです。
にもかかわらず、「私には罪はありません、私は正しいです」というのであれば、
それは「私には罪がないので、ゆるしは必要ないです」と言っているのと同じです。
「わたしには、イエスの十字架が必要ないです」と言っていることになるのです。
「私は罪人です、赦して下さい」と願うからこそ、神は赦されるのです。
むすび.自分の罪を認めようとしなければ天国には入れない
「私は罪がないので、ゆるされなくて大丈夫です」と言っていたら、
ゆるしを受取れません。せっかくイエスが、天国への道となってくださったのに、
その道を、通れなくなってしまうのです。天国に入れないのです。
他人の罪をとやかく言うことではなく、自分自身の罪を認めることこそが、
非常に重要なことなのです。あの人はどうなのですか、ではなく
「私は罪人です、どうか私の罪をゆるしてください」という祈りこそが最重要なのです。
自分の罪の認識と、赦してほしいという願いがなければ、
決して天国には入れません。逆に言うと、どんなに罪深いと感じていたとしても
その罪を認めてイエスに赦しを願い求めるならば、赦されて天国に入れて頂けるのです。
【今日の聖書】
自分の罪を公に言い表すなら、
神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、
あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
ヨハネの手紙一 1章9節