地域牧師の早天祈祷会
今朝は、地域の牧師の早天祈祷会が開かれました。
牧師というのは、力強い人々なのではありません。
特に強靭な精神力を持っているとか、誰よりも忍耐強いから牧師なのではありません。
単なる、弱く罪深い人間のひとりなのです。
けれども、私たちの弱いところに、神の力強い働きがなされて
弱さを払拭し、強くして下さって、神の栄光が現わされるのです。
「弱さ」は失望落胆する原因ではなく、神の力がそこにこそ現わされる
素晴らしいきっかけであり、チャンスなのです。
病気だったからこそ、神のいやしの力が現わされ
貧しかったからこそ、神の絶大な富の豊かさが現わされ、
行き詰っていたからこそ、解決を与える神の知恵と導きの素晴らしさが現わされ、
嵐の中だったからこそ、それを静めて下さる神の力が現わされたのです。
何も特別な勉強をしたわけでもなかった、漁師に過ぎないペトロとヨハネが
大祭司や律法学者やファリサイ派の人々が驚くほどの説教をしているのです。
議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、
しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、
また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。
しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、
ひと言も言い返せなかった。
使徒言行録 4章13〜14節
知恵や知識のなかった人だったからこそ、神の与えられた知恵や知識が
素晴らしかったということが、表されているのです。
生まれてからこのかた、歩けなかったからこそ神の栄光が表されているのです。
もし少しでも歩けていたら、それほど人々は驚かなかったでしょう。
貧しくて物乞いをしなければならなかったからこそ、毎日神殿の門の所に置かれ
物乞いをし、多くの人々に見られ、誰もが知る人となっていたのです。
だから、足をいやしていただいた人を見れば誰もが、すぐに
その人がどんな人だったか、認識できたのです。
みんなに物乞いの姿を見られて恥ずかしかった、それが実は良かったのです。
ラザロも死にました。癒されずに死んでしまいました。
ラザロは死んでしまったからこそ、生き返らせてくださる神の力が現れたのです。
もし彼が死んでしまわなければ、生き返ることもなかったのです。
もうだめだ、これ以上できない、希望も何もない、行き詰った、という時こそ
神の力が表されるチャンスなのです。落胆のチャンスではなく、希望のチャンスなのです。
自分ができないことを、嘆く必要はないのです。逆に喜ぶべきことなのです。
そのときにこそ、弱さに直面したときにこそ、その弱い所に
神が働いて下さるのです。そして、自分の力ではない、神の力が体験できるのです。
ペトロは素晴らしい働きをしました。けれどもこう語るのです。
これを見たペトロは、民衆に言った。
「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。
また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、
この人を歩かせたかのように、なぜ、
わたしたちを見つめるのですか。
使徒言行録 3章12節
ペトロの力や信心によってではなく、ただただ神の力だったのです。
ペトロにはもともと、そんな力はなかったのです。
私たちとまったく同じです。弱いペトロだったのです。
必要な事は、神の力を求めて祈ることです。
弱い所に完全に神の力が表され、神の栄光になるように祈るのです。
力強い働きは、私がするのではなく、神がして下さるのです。
神が、私たちを通してして下さるのです。
【今日の聖書】
すると主は、
「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
コリントの信徒への手紙二 12章9節