弟子であることを隠していた
アリマタヤ出身のヨセフは、大胆にも
イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出ています。
総督をも恐れず、ユダヤ人をも恐れない勇敢な人だと感じられますが
元々は、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、
そのことを隠していたのです。
人を恐れていた結果、信仰を隠してしまっていたのです。
信仰を隠したままであると、どうなるでしょうか?
アリマタヤのヨセフの例で言えば、
イエスの遺体を取り降ろしたくても、できなかったでしょう。
信仰を隠したままでいると、いざという時
信仰の行いが、できなくなってしまうのです。
信仰を実行に移すためには、信仰を隠していてはだめなのです。
アリマタヤのヨセフは、信仰を隠すことをやめたのです。
そして、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出て
それを実行し、そのことが聖書に記されて世界中の人に知られているのです。
信仰は隠すものではなく、表すものなのです。
【今日の聖書】
その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、
そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、
イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。
ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
ヨハネによる福音書 19章38節