3人のヨハネ
聖書の中には、ヨハネという名前の人物が複数出てきます。
バプテスマのヨハネ、ゼベダイの子ヨハネ、マルコと呼ばれていたヨハネ。
この3人は、イエス・キリストを信じて生きた人物です。
3人の共通点は、ただイエス・キリストを信じたということだけでなく
イエス・キリストのために、神に大いに用いられ働いたということです。
1. バプテスマのヨハネ
バプテスマのヨハネは、イエス・キリストこそが神の備えられた小羊だと
人々に示しました。イエス・キリストこそ、罪を取り除くために神がお遣わしになった
救い主であることを、人々に知らせたのです。
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
ヨハネによる福音書 1章29節
けれどもバプテスマのヨハネも、迷っています。
ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。
そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。
「来るべき方は、あなたでしょうか。
それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
マタイによる福音書 11章2〜3節
これに対して、イエスは答えを示されます。
イエスはお答えになった。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、
重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、
死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
わたしにつまずかない人は幸いである。」
マタイによる福音書 11章4〜6節
「来るべき救い主は、私です」と答えているのです。
2. ゼベダイの子ヨハネ
いわゆる使徒ヨハネです。
当初は「ボアネルゲス」と呼ばれるほどの、短気な男でしたが
聖霊に満たされて後、大きく用いられています。
すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。
神殿の境内に入る人に施しを乞うため、
毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。
彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。
ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、
「わたしたちを見なさい」と言った。
使徒言行録 3章2〜4節
「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていた
足の不自由な人の癒やしの際、ペトロと共にそこにいました。
その後ペトロと共に、捕らえられ翌日まで牢に入れられます。
ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、
サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、
イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、
彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。
既に日暮れだったからである。
使徒言行録 4章1〜3節
しかし、ペトロとヨハネの語った言葉によって信じた人は多かったのです。
しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、
男の数が五千人ほどになった。
使徒言行録 4章4節
3. マルコと呼ばれていたヨハネ
ペトロが、ヘロデ王によって捕らえられ牢に入れられていた時、
マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家では、
ペトロのために、熱心な祈りがささげられていました。
こう分かるとペトロは、
マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。
そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
使徒言行録 12章12節
その後、マルコはパウロに連れられてアンティオキアに行き
第一回伝道旅行に、同行することになります。
サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。
二人は、ヨハネを助手として連れていた。
使徒言行録 13章5節
しかしマルコは、ペルゲで一行と別れて、
エルサレムに帰ってしまいます。
パウロとその一行は、
パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、
ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。
使徒言行録 13章13節
後にパウロは、「マルコは伝道旅行に連れて行かない」と主張し
バルナバとも別れてしまうことになりますが、
後になって、「マルコはよく助けてくれる」と語るまでに回復しています。
ルカだけがわたしのところにいます。
マルコを連れて来てください。
彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。
テモテへの手紙二 4章11節
むすび.
このように、三者三様の用いられ方でしたが
それぞれが、大きく用いられていたことは確かです。
それぞれが、完璧だったのではなく不完全でした。
けれども不完全さを持ちつつも、それを克服し
神に助けられて、大きく用いられているのです。
私たちも、自分の不完全さを嘆く必要はないのです。
同じように大きく用いられるのです。
神に信頼し、依り頼めば良いのです。
自分の力でやろうとすると失敗しますが、神に頼めば成功するのです。
【今日の聖書】
同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。
わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、
“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
ローマの信徒への手紙 8章26節