今日のできごと


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2019/7/4(木)

 

カッコよさを追求すると...

1.イエスは弟子たちの足を洗われた

 最後の晩餐の席で、イエスは弟子たちの足を洗っておられます。

 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、
 手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、
 腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
 ヨハネによる福音書 13章4〜5節

 この時はまだ、イスカリオテのユダも出て行っていませんでしたので
 イスカリオテのユダの足も、イエスは洗われたのです。
 イスカリオテのユダはその後、パン切れをイエスから受け取った後に出て行っています。

 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。
 ヨハネによる福音書 13章30節

 ご自分を裏切ることになる、イスカリオテのユダの足をも
 イエスは、腰をかがめて洗ってあげたのです。
 にもかかわらず、ユダはイエスを堂々と裏切ってしまうのです。

2.イエスが弟子たちの足を洗う姿は、決してかっこよくはなかった

 人の足を洗ってあげる姿を考えてみると、それはかっこいいものではありません。
 誰が見ても、かっこ悪い姿です。手拭を腰にまとい、
 たらいの水で人の足を洗うというのは、屈辱的な仕事のようにも見えます。

 しかしこの姿こそが、イエスの示された愛の姿なのです。
 その愛の行為は、決してかっこよくはなかったのです。
 かっこ悪く見えたはずなのです。

3.真実に人を愛そうと思うなら「カッコよさ」を捨てる必要がある

 私たちは、人から良く見られたいと思い、とかく「カッコよさ」を追求しがちです。
 どうしたら「カッコよく生きられるか」、服、カバン、持ち物、住まい、部屋、...
 しかし真実に人を愛そうと思うと、「カッコよさ」を捨てなければならないのです。

 教会がもし、カッコよさを追求したらどうなるでしょう?
 イエスの洗足の姿から、遠ざかってしまうでしょう。
 洗足はカッコよくないからです。

 本当の愛は、カッコが悪いものです。
 本当の愛は、人の目を気にしないのです。
 自分がどう見られようが、構わないのです。

むすび.イエスの十字架は究極の愛の姿だが、カッコ良さとは程遠い姿

 放蕩息子が、みすぼらしいぼろぼろの姿で帰ってきた時
 その息子に向かって、なりふり構わず走り寄って行った父の姿は、
 決してカッコのいいものでは、なかったはずです。

 そして十字架上のイエスの姿は、どこからどう見ても、
 カッコよいなどと、言えるものではなかったのです。
 人に嘲られ罵られ、裸で人にさらされて、血を流して苦しんで死んで行かれたのです。

 しかしそれこそが、究極の神の愛の姿だったのです。
 愛は、自分を捨てて人を生かすのです。
 そこに、自分自身のかっこよさを追求する姿は、ないのです。

 【今日の聖書】
 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、
 手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、
 腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
 ヨハネによる福音書 13章4〜5節


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