われらの日用の糧を
1.毎日、主の祈りを祈る
主の祈りを、礼拝で祈ります。
天にましますわれらの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
われらの日用の糧を今日も与えたまえ。
われらに罪を犯すものを、
われらがゆるすごとく、
われらの罪をもゆるしたまえ。
われらをこころみにあわせず、
悪より救い出したまえ。
国と力と栄とは、限りなく
なんじのものなればなり。
アーメン。
「われらの日用の糧を
今日も与えたまえ。」とあります。
「今週も」ではなく「今日も」ですから、1週間に一度だけ祈るのではなく
毎日祈ります。もちろん礼拝でも祈りますが、
毎日個人的にも祈るのです。
2.御名をあがめるのは、私
始めに「願わくは御名をあがめさせたまえ。」と祈りますが
「御名をあがめることは、誰がすることなのか?」と考えると
これは、神ではなく、
私達ひとりひとりになります。
神に願う祈りにもかかわらず、神に「それをして下さい」というのではなく
「私に、神のみ名をあがめさせてください」と祈っているわけです。
「神」がするのではなく、「
私」がするのです。
ですから、「私は、神のみ名をあがめます」という祈りになります。
すなわち、簡単に言えば「私は、神をほめたたえます」という祈りなのです。
この祈りをする時「
今日も神を賛美して生きて行こう!」という思いになるのです。
3.日々の糧を与えて下さいという祈りの真意
3.1 神が今食事を与えて下さっているという認識が生まれる
同様に「われらの日用の糧を今日も与えたまえ。」という祈りも
単に「私の今日の食事を与えて下さい」というのではなく、こう祈ることによって
「今日の食事も、
神が与えて下さっているから食べられるんだ」という認識が生まれます。
人間は食事をしなければ生きていけませんから、食事はとても重要です。
その重要な食事を与え、
私を生かしてくださっているのは神なんだという
その認識が、こう祈ることによって生まれてくるのです。
3.2 世界中の人々の食事を求める願いが生じる
また、「
われらの」とありますから、「自分だけ食べられればいいや」ではなく
「
私たちすべてが、十分に食べられますように」と祈っていることになります。
自分だけの祈りではなく、「私たちすべて」のための祈りなのです。
それでは、「われらの」の範囲はどこまでになるのでしょうか?
自分の家族でしょうか?自分の教会の全員、ということでしょうか?
それとも、世界中のクリスチャン全員でしょうか?
この言葉を語られたのは、イエスがご自分に従ってきた群衆を見て
山に登り、弟子たちが近寄ってきた時でした。
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。
腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
マタイによる福音書 5章1節
ですから、直接的には当時の弟子たちに対して語っておられたことは
間違いありません。しかし、だからと言って今の私たちには関係ないことはありません。
今イエス・キリストを信じている私たちにも、もちろん語られている言葉です。
そして、「イエスに従っている私達には食事を与えて下さい」と祈って、
「イエスに従っていない人は飢えていてもいいのです」と祈れなどとは
言われていません。
「われらの」については、どこにもその線引きがないのです。
ということは、制約条件がないわけです。信仰の有無も条件になっていないのです。
つまり、「われら」というのは無条件に「世界中のすべての人」ということになります。
「
世界中のすべての人が、生きるのに必要な食事ができて
元気に生きていくことができますように!」という、
そういう「
世界中の人々を生かす祈り」になっているのです。
3.3 世界中の人々を生かすための、愛の祈り
一言で言えば、世界中の人に生きるのに必要なものを与えて下さいという
世界中の人を今日も、生かすための祈りなのです。
すなわち、
世界中の人を愛する祈りなのです。
世界中の人に、食事を与えて下さいと祈りながら、
自分の近くに飢えて苦しんでいる人がいても、知らんぷりをするということは
これは、あり得ないことです。
神に「皆が食事ができるように!」と願い祈るならば
自分にそれができる時は、
自分でできる範囲で行うはずだからです。
自分が持っているなら、喜んで与えるのです。自分がみこころを行うのです。
ですから「われらの日用の糧を今日も与えたまえ。」という祈りは
一見すると「与えて下さい」という祈りに思えるのですが
これは実際は、「わたしも、食事がなくて飢えている人に食事を与えます」という
「
与えます」という祈りになっているのです。
「わたしの日用の糧を」ではなく、「われらの日用の糧を」
ここが、重要なポイントなのです。
むすび.主の祈りは私の思いと行動を変える
イエスは言われました。
だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
マタイによる福音書 6章9節
「だから、こう祈りなさい。」と言って、主の祈りを教えられたのです。
その祈りをする時に、何が起こっていくか?
自分自身の思いと行動の変革が、起こっていくのです。
主の祈りは、自分自身の思いと行動を、神のみこころに近づけていく祈りなのです。
そのことによって、
変えられた私たちを通して、
地上に、神のみこころが行われていくことになるのです。
御心が行われていくのです。天におけるように地の上にも。
そして人生を終えて神の前に立つ時、
そのようにして生きてきた人たちは、神から次のように言われるでしょう。
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、
のどが渇いていたときに飲ませ、
旅をしていたときに宿を貸し、
裸のときに着せ、
病気のときに見舞い、
牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
マタイによる福音書 25章35〜36節
そのように、人生を生きていきましょう!
【今日の聖書】
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
マタイによる福音書 6章11節