今日のできごと


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2019/5/10(金)

 
コデマリ

イエスが私のすべて

 【夫婦の会話のたとえばなし】(実在の人物とは一切関係ありません)

 妻「私のこと愛してる?」
 夫「愛してるよ」

 妻「ほんとに?どれくらい??」
 夫「君を一番愛してる。僕にとって君は、世界中で一番だ!」

 妻「えっ?」
 夫「世界中で、一番愛しているよ」

 妻「でも〜、一番っていうことは...」
 夫「何?」

 妻「わたしのほかに、二番や三番がいるの?」
 夫「う〜んそうかぁ〜」

 妻「誰?わたしのほかに、誰と誰がいるの?」
 夫「わかった!君が一番じゃないよ。言い方が悪かった」

 夫「君は僕の一番じゃなくて、君は僕のすべてだよ」
 妻「うれしい!私も愛してる!」

 夫「君は僕のすべてだよ。愛してる」

 このように「一番」というのと「すべて」というのとでは
 その意味合いに、大きな差が生じてしまいます。
 夫にとって妻以外の第二・第三がいないにもかかわらず、

 「一番」と言ってしまうとあたかも、妻以外の
 第二、第三の人がいるかのような、そんな意味合いになってしまいます。
 「すべて」と言えば、100%なのでその他がいなくなります。

 同様に「イエスが私の一番」というと、
 あたかも、イエス以外の第二、第三があるような意味合いになってしまいます。

 「家庭よりもイエスが一番」「仕事よりもイエスが一番」「友達よりもイエスが一番」
 というような考え方になってしまいがちです。
 イエスと仕事と家庭と友達が、あたかも並列に置かれているようなそんな感じです。

 イエスと分離された「仕事」、イエスと分離された「家庭」、「友達」です。
 仕事をしている時に、「私は今人生で『第一番目のイエス』ではなく
 『第二番目の家庭』をも離れて、『第三番目の仕事』をしているのだ」となり兼ねません。

 もちろん仕事をしているまさにそこに、イエスが共にいて下さいますし
 家にいる時にも、まさにそこにイエスが共にいて下さるのです。
 歩いている時にも、買い物をしている時にも、

 勉強をしている時にも、まさにそこにイエスが共にいて下さるのです。
 ですから私たちは、「イエスが私の一番」というよりもむしろ
 「イエスが私のすべて」というのです。

 どこにいても、いついかなる時も、「イエスがすべて」なのです。
 ちょうど世界中のどこにいても、妻を愛しているのと同じです。
 世界中のどこにいても、イエスがわたしのすべてなのです。

 確かに、第一に求めるのは「神の国と神の義」ですが、
 「イエスがわたしのすべて」だからこそ、「神の国と神の義」を第一に求めるのです。
 私たちはどこにいても「イエスがわたしのすべて」という生き方をするのです。

 【今日の聖書】
 生きているのは、もはやわたしではありません。
 キリストがわたしの内に生きておられるのです。
 わたしが今、肉において生きているのは、
 わたしを愛し、わたしのために身を献げられた
 神の子に対する信仰によるものです。
 ガラテヤの信徒への手紙 2章20節


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