イエスが私のすべて
【夫婦の会話のたとえばなし】(実在の人物とは一切関係ありません)
妻「私のこと愛してる?」
夫「愛してるよ」
妻「ほんとに?どれくらい??」
夫「君を一番愛してる。僕にとって君は、世界中で一番だ!」
妻「えっ?」
夫「世界中で、一番愛しているよ」
妻「でも〜、一番っていうことは...」
夫「何?」
妻「わたしのほかに、二番や三番がいるの?」
夫「う〜んそうかぁ〜」
妻「誰?わたしのほかに、誰と誰がいるの?」
夫「わかった!君が一番じゃないよ。言い方が悪かった」
夫「君は僕の一番じゃなくて、君は僕のすべてだよ」
妻「うれしい!私も愛してる!」
夫「君は僕のすべてだよ。愛してる」
このように「一番」というのと「すべて」というのとでは
その意味合いに、大きな差が生じてしまいます。
夫にとって妻以外の第二・第三がいないにもかかわらず、
「一番」と言ってしまうとあたかも、妻以外の
第二、第三の人がいるかのような、そんな意味合いになってしまいます。
「すべて」と言えば、100%なのでその他がいなくなります。
同様に「イエスが私の一番」というと、
あたかも、イエス以外の第二、第三があるような意味合いになってしまいます。
「家庭よりもイエスが一番」「仕事よりもイエスが一番」「友達よりもイエスが一番」
というような考え方になってしまいがちです。
イエスと仕事と家庭と友達が、あたかも並列に置かれているようなそんな感じです。
イエスと分離された「仕事」、イエスと分離された「家庭」、「友達」です。
仕事をしている時に、「私は今人生で『第一番目のイエス』ではなく
『第二番目の家庭』をも離れて、『第三番目の仕事』をしているのだ」となり兼ねません。
もちろん仕事をしているまさにそこに、イエスが共にいて下さいますし
家にいる時にも、まさにそこにイエスが共にいて下さるのです。
歩いている時にも、買い物をしている時にも、
勉強をしている時にも、まさにそこにイエスが共にいて下さるのです。
ですから私たちは、「イエスが私の一番」というよりもむしろ
「イエスが私のすべて」というのです。
どこにいても、いついかなる時も、「イエスがすべて」なのです。
ちょうど世界中のどこにいても、妻を愛しているのと同じです。
世界中のどこにいても、イエスがわたしのすべてなのです。
確かに、第一に求めるのは「神の国と神の義」ですが、
「イエスがわたしのすべて」だからこそ、「神の国と神の義」を第一に求めるのです。
私たちはどこにいても「イエスがわたしのすべて」という生き方をするのです。
【今日の聖書】
生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです。
わたしが今、肉において生きているのは、
わたしを愛し、わたしのために身を献げられた
神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙 2章20節