今日のできごと


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2019/4/25(木)

 
ツツジ

トマスはなぜそこにいなかったのか?

1.10人の弟子たちは一緒に怖がりながら部屋に閉じこもっていた

 イエス・キリストの復活前に、弟子たちは戸を閉じて
 鍵をかけて、みんなで部屋の中に閉じこもっていました。
 イエスを捕えて十字架刑にした、ユダヤ人が怖かったからです。

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、
 弟子たちはユダヤ人を恐れて、
 自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
 ヨハネによる福音書 20章19節(前半)

 そこにイエスは現れて、復活したことを弟子たちに示されました。

 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
 「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 ヨハネによる福音書 20章19節(後半)

2.トマスはそこにいなかった

 けれどもなぜかそこに、トマスだけがいませんでした。

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、
 イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
 ヨハネによる福音書 20章24節

 そのためトマスは、当初イエスの復活を信じることができませんでした。

 そこで、ほかの弟子たちが、
 「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。
 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、
  また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、
  わたしは決して信じない。」
 ヨハネによる福音書 20章25節

3.トマスはなぜそこにいなかったのか?

 トマスがそこにいなかった理由が、聖書には記されていません。
 トマスはなぜ、その時そこにいなかったのでしょうか?
 考えてみましょう。

3.1 他の弟子たちより怖がって、もっと安全な所に逃げようとしていた

 推論@:トマスは、もっと安全な所に逃げたかった
     「エルサレムにいたらまずい、捕まるかもしれない、
      どこか他に行って、身を潜めよう。」という考えだったか?

 検証@:トマスは、イエスに会った弟子たちと会話していますから、
    一時的な不在だったことが、わかります。
    もし、もっと安全な所に逃げたかったのであれば、戻って来なかったはずです。

 結論@:推論@は却下

3.2 他の弟子たちのようには怖がっていなかったから外に出ていた

 推論A:トマスは、ユダヤ人を恐れていなかったから部屋にいる必要がなかった

 検証A:弟子たちが部屋に鍵をかけていたのは、ユダヤ人を恐れていたからでした。
    しかし、トマスがその鍵をかけていた部屋の外にいたということは、
    トマスは部屋の外に出ても、平気だったという推測もできます。

    けれども部屋にいなかったことが、即ユダヤ人を恐れていなかったということには
    なりません。恐れていても、部屋から出る理由はいくらでも考えられます。
    トマスも、ゲッセマネでイエスが捕縛された時は逃げていますので

    まったくユダヤ人を恐れていなかったとは、考えにくいです。
    ゲッセマネのことを考えれば、他の皆と同様恐れていたと考えるのが
    自然でしょう。

 結論A:推論Aも却下

3.3 やむを得ない事情があった

 推論B:トマスは、買い出しか何かの必要に迫られて出かけていた

 検証B:ユダヤ人に捕縛されるのを恐れていても、
    やるべきことは、しなければならなかったはずです。
    食べることもそうです。したがって、弟子たちの誰かが買い出しなど物資の調達に
    行かなければならなかった、ということは考えられます。

    その誰かがトマスだったという可能性は、捨てきれません。
    トマスが恐れを抱きつつも、みんなのために食糧の調達に出かけていた
    ということであれば、それは「ほめられるべきこと」でこそあれ、

    決して責められることではなかった、と考えられます。
    食糧調達以外にも、エルサレムの状況の情報収集に走っていたとか、
    弟子以外の他の仲間と連絡を取っていたとか、いろいろ考えられます。

 結論B:推論Bの可能性は0ではない

むすび.一緒にいなかったことではなく不信仰が責められている

 「トマスはあの時、他の弟子たちと一緒に部屋にいたらよかったのに!
  そうすれば、復活のイエスとお会いできたのに!」
 と言われる方も、おられるかもしれません。

 けれども、トマスがそこにいなかった理由が、単なる自己中心的な、
 「自分はここにはいたくないから、出かけて来る」というような
 理由であったかどうかは、聖書には書かれていません。

 もしかしたら、ユダヤ人に見つかるのを覚悟で、恐ろしかったけれども
 皆のために食料を調達しに出かけていた、ということだったのかもしれません。
 もしそういうことであったならば、「なぜみんなと一緒にいなかったのか!」と

 トマスを責めることはできないのです。
 トマスが責められなければならなかったのは、そこではないのです。
 トマスが責められなければならなかったのは、

 「イエスが復活して現れた」と言う弟子たちの言葉を、
 頑なに「信じない」と言った点なのです。要するに、不信仰なのです。

 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。
 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、
  この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 ヨハネによる福音書 20章25節

 イエスは後にトマスに語られます。
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。
 そうです、「なぜ皆と一緒にそこにいなかったのか」と責めるのではなく

 「信じる者になりなさい」なのです。
 私たちは、イエス・キリストの復活を、
 信じない者ではなく、信じる者になる必要があるのです。

 【今日の聖書】
 それから、トマスに言われた。
 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
  また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
  信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 ヨハネによる福音書 20章27節


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