私には責任がない
ピラトは、裁判の席上こう言いました。
「この人の血について、わたしには責任がない」
すなわち「イエスの血について、わたしには責任がない」と言ったのです。
ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、
かえって騒動が起こりそうなのを見て、
水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。
「この人の血について、わたしには責任がない。
お前たちの問題だ。」
マタイによる福音書 27章24節
本当に責任がなかったのでしょうか?
ピラトは、イエスが引き渡されたのはねたみのためだったと
気づいていたのです。
ピラトは、人々が集まって来たときに言った。
「どちらを釈放してほしいのか。
バラバ・イエスか。
それともメシアといわれるイエスか。」
人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
マタイによる福音書 27章17〜18節
にもかかわらず、群衆の声に負けてしまい
イエスを十字架につけるようにしてしまったのです。
責任がなかったわけではありません。
そしてそれはピラトだけでなく、群衆にも当てはまります。
民はこぞって答えた。
「その血の責任は、我々と子孫にある。」
マタイによる福音書 27章25節
「その血の責任は、我々と子孫にある」と断言しているからです。
そこにいた群衆にも、その責任が、かかっていたのです。
そしてそれは、現代の私たちにも当てはまります。
もし私が罪人でなかったなら、責任は問われなかったでしょう。
まさに私が罪人だから、イエスは十字架で死なれたのです。
イエス・キリストの十字架の死の責任は、私にもあるのです。
私が罪人でなかったら、十字架につけられることはなかったからです。
その責任の責めを負わない人は、この世の中に一人もいないのです。
そしてそれを赦してくださる方はただ一人、
十字架で死なれたイエス・キリストなのです。
イエス・キリストを信じる者は誰一人例外なく、罪が赦され
永遠の命が与えられるのです!天国で永遠に生きることができるのです。
【今日の聖書】
わたしたちはこの御子において、
その血によって贖われ、罪を赦されました。
これは、神の豊かな恵みによるものです。
エフェソの信徒への手紙 1章7節