今日のできごと


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2019/2/27(水)

 
宍道湖大橋

右の頬を打たれたら、左も?

 先日ある方が、こう言われました。
 「右の頬を打たれたら、左も出せなんていうのはおかしいですよ」
 「なんで右の頬を打たれたら、左も出さないといけないんですか?」

 普通は、右の頬を打たれたら、その時点で被害者になります。
 裁判で争えば、加害者が罰せられることになるでしょう。
 被害者はそれ以上の被害を受けないように、守られなければなりません。

 裁判沙汰にすることなど普通はしないと思いますが、
 殴られたらそれ以上殴られないように、やめるように諭して
 そこから避難するなどの行動をとることでしょう。

 冷静さが失われていなければ、そのような行動がとれるでしょう。
 しかし不意打ちの場合、冷静ではいられないかもしれません。
 痛さのため、思わず相手の頬を打ち返してやっつけてしまうかもしれません。

 ただでさえ右の頬を打たれて痛いのに、左も出すなどということは
 普通はできないことだと思います。
 逆に「やられたらやり返す」これが、通常の考え方ではないでしょうか?

 ところが、よく考えてみると「やられたらやり返す」に終わりはないのです。
 どこまでも繰り返され、最後は両方とも疲弊してぼろぼろになることでしょう。
 「やられたらやり返す」は、泥沼に陥ってしまうのです。

 それでは、右の頬を打たれたら、左の頬を出さずに
 そこで我慢するだけでは、いけないのでしょうか?
 なぜ左の頬までださないと、いけないのでしょうか?

 そんなことをしたら、相手が図に乗って、
 ますますエスカレートするのでは、ないでしょうか?
 やられっぱなしでいいのでしょうか?

 イエス・キリストは、まさにこれを身をもって示されました。
 あざけられても、ののしられても、されるがままで
 最終的には、十字架で殺されるままになってしまったのです。
 
 やられっぱなしで、負け犬で終わったでしょうか?
 違います。
 3日目に、墓の中から復活されたのです。

 神は正しいお方です。たとえ不条理な目に会ったとしても
 最後には正しく裁いて下さるのです。
 ですから、自分で裁かず神の裁きに任せられたのです。

 「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、
 正しくお裁きになる方にお任せになりました。
 そして、十字架にかかって、
 自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
 わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
 ペトロの手紙一 2章22〜24節

 これが、イエス・キリストがわたしたちにみせられた模範なのです。
 ここに罪人に対する神の愛が、表されているのです。
 同じように、私たちも愛するのです。

 【今日の聖書】
 しかし、わたしは言っておく。
 悪人に手向かってはならない。
 だれかがあなたの右の頬を打つなら、
 左の頬をも向けなさい。
 マタイによる福音書 5章39節


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