バプテスマのヨハネの最後
聖書は、当時のありのままを記録しています。
ですからある場面は、非常に残酷極まりないのです。
その中の一つに、バプテスマのヨハネの最後があります。
1.洗礼者ヨハネの首を下さい
ヘロデ王の誕生日に、ヘロディアの娘が踊りを踊り、ヘロデを喜ばせます。
ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、
皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。
マタイによる福音書 14章6節
そして、ヘロデ王は娘に「願うものは何でもやろう」と誓って約束するのです。
それで彼は娘に、
「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。
マタイによる福音書 14章7節
すると娘は、母親に唆されて、
「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」
と願うのです。
すると、娘は母親に唆されて、
「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。
マタイによる福音書 14章8節
2.少女はヨハネの首を母親に持って行った
一体この人は、自分が何を願っているのかわかっていたのだろうか?
と、驚くばかりです。人の命をかくも簡単に奪って、しかもその上
その首をもって来て下さいなどと、よくもそんなことが簡単に言えたものだと思います。
母親に言われたからと言っても、拒否して当然のことだったでしょう。
そんなものを、本当にもって来られて目の前にしたら、
普通の少女ならば当然、計り知れない精神的ショックを受けるはずです。
けれどもさらに驚くことに、彼女はそれを平然と受け取って
母親の元に持っていくのです。
とても受け取れませんというのではなく、普通に物を運ぶように運んでいます。
その首は盆に載せて運ばれ、
少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。
マタイによる福音書 14章11節
3.罪は残酷極まりない
何という親子だろうか?
人の命を何とも思っていないのだろうか?
人の生首を見ても、恐怖を覚えないのだろうか?
普通の少女なら、大きな精神的ダメージを受けるはずです。
聖書には、その後の彼女のことが書かれていませんが、
もしかすると、やはりその日以来、彼女は精神的に打撃を受けてしまって
食事ものどを通らず、夜も寝られなくなってしまい
どんどん、弱っていってしまったかもしれません。
そして最後は弱り切って、寝込んでしまったのかもしれません。
もしそうでなく、普通に生活していたとしたら
それはもう、本当に恐ろしいことです。
娘が何とも思わなかったとするなら、その母親がそう育て上げたのでしょう。
いずれにせよ、へロディアとその娘の想像を絶する残虐性を教えられます。
むすび.すべての人が残酷極まりない罪をもって生活している
(1) へロディアの娘に限らずすべての人に当てはまる
へロディアの娘のことを通して、人間の内にある罪の残虐極まりないことを教えられます。
彼女たちだけが、特別罪深かったわけではないのです。
すべての人が、全人類が同じように罪深いのです。
もし自分が、へロディアの娘と全く同じ環境で育ったとしたら
どうだったでしょうか?
母親に言われたとしても、はっきりと断ることができたでしょうか?
私たちの内側にある罪は、私たちの想像を絶する恐ろしさを持つものなのです。
私たちはそれに気づかずに、生活しているだけなのです。
私たちが罪と思っているのは、氷山の一角なのです。
(2) 全員が殺人を犯す可能性を秘めている
十戒の中に「殺してはならない」とあります。
私たちは何かこの戒めは他人事のように、感じるのではないでしょうか?
もし私たちが、絶対に殺人など犯すはずがなかったら、
このような戒めは、なかったはずです。
人を殺してしまう可能性が十分あるからこそ、この戒めが存在しているのです。
要するに、私たちは自分自身の罪の本当の恐ろしさを知らないだけなのです。
へロディアの姿と、へロディアの娘の姿は
もしその状況が同じであったなら、私自身の姿でもあるわけです。
私たちは、そのように恐ろしい罪をもっているのです。
(3) どうしても救い主イエスが必要!
こうなっては、自分ではもうどうすることもできないのです。
ですから、救い主イエス・キリストが必要なのです。
私の罪をゆるすために、身代わりになって十字架で死なれたイエスが
どうしても必要なのです。
イエス・キリストは、そんなにも罪深い私たちであっても
完全に赦し、罪から解放して下さるのです。
【今日の聖書】
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
神はわたしたちに対する愛を示されました。
ローマの信徒への手紙 5章8節