今日のできごと


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2019/10/21(月)

 

この曲は素晴らしい!

 「この曲は素晴らしい曲ですね」と言ったら
 それは曲自体を褒めているのですが、と同時に
 その曲を作った人、作曲家も褒めていることになります。

 「あの作曲家は素晴らしいですよ!」と言ったら
 作曲家の作曲した作品を、褒めていることになります。
 「なぜ、その作曲家が素晴らしいのか?」それは、作った曲が素晴らしいからです。

 私たちは神を賛美します。ほめたたえます。
 その時、神が造られた被造物の素晴らしさも褒めているのです。

 新しい歌を主に向かってうたい
 美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ。
 主の御言葉は正しく
 御業はすべて真実。
 主は恵みの業と裁きを愛し
 地は主の慈しみに満ちている。
 御言葉によって天は造られ
 主の口の息吹によって天の万象は造られた。
 詩編 33編3〜6節

 「あの作曲家は、素晴らしい作曲家ですよ」と言いながら
 「あの作曲家の作る曲は、大した事ない曲ばかりですよ」とは言いません。
 作曲家の作った曲をけなすことは、作曲家自身をけなすのと同じだからです。

 同様に、神が素晴らしいと賛美しながら、
 神の造られたものを、けなす人はいません。
 神が造った被造物をけなすことは、神ご自身をけなすのと同じだからです。

 私たちひとりひとりは、神に造られたものたちです。
 もし神の造られたその人をけなしたり、侮辱したりするとしたら
 それはその人を造られた神を、侮辱することになってしまうのです。

 「なんてひどい人を神は造られたんだ!」というのは、賛美の反対です。
 確かに人は、ひどい罪を犯しています。けれども、その人の罪が悪いのであって
 その人自体は、神の最高傑作なのです。

 ダイヤモンドの指輪が、墨汁の中に浸かっているようなものです。
 墨汁で真っ黒になっているからと言って、ダイヤモンドの価値は下がりません。
 墨をきれいに洗って、落としてしまえば元に戻るのです。

 墨にまみれているからと言って、
 「なんてひどいダイヤの指輪だ!誰が造ったんだ!」とは言いません。
 汚れてきたなくなったのは、指輪を造った人の責任ではないからです。

 ダイヤを保管していた人の責任なのです。
 汚れないように、保管すべきだったのを怠ってしまったから
 汚れてしまっただけなのです。

 もし本物の1カラットのダイヤの指輪が
 墨汁の中に落ちていたら、どうするでしょうか?
 黒くなったから汚いからと言って、捨ててしまうでしょうか?

 捨てないでしょう。洗って、きれいにして使うのです。
 それと同じように、どんなに罪を犯している人であっても限りなく高価なのです。
 けなしたり、侮辱したりすることはできないのです。

 罪から離れて、神に造られた本来の尊い姿に戻ることを願い、祈るのです。
 墨まみれのダイヤも、洗えば元に戻るのです。
 罪まみれの人間も、イエスの十字架の血でゆるされて元に戻るのです。

 だから、神をほめたたえる人は、神の造られたすべての人をも当然ほめるのです。
 神以上に人をほめたたえることは、もちろんしませんが
 神をほめたたえる時当然、神の造られたものも素晴らしいと褒めるのです。

 【今日の聖書】
 「主よ、わたしたちの神よ、
  あなたこそ、
  栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。
  あなたは万物を造られ、
  御心によって万物は存在し、
  また創造されたからです。」
 ヨハネの黙示録 4章11節


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