今日のできごと


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2018/10/21(日)



愛するために生きている私たち

1.私は愛するために生かされている

 わたしたちは今、生きています。神に命が与えられて、生かされています。
 神は私たちを、隣人を愛するために生かしておられるのです。
 私たちの使命は、隣人を愛することです。

 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。
 これがわたしの掟である。
 ヨハネによる福音書 15章12節

 私たちは、人を愛するために生きているのです。
 愛と言っても、結婚や恋愛とはレベルが異なります。
 隣人にとっての最善を願い、隣人を最善に生かすのが愛です。

 その隣人は例外なく罪人ですから、ひどいことを言われたり
 されたりすることも、あるかもしれませんが、
 そんなことは関係なく、愛し続けるのです。

 7度の70倍、すなわち無限にゆるして、
 相手を受け入れ続けるのです。それが愛です。
 真の愛は、相手を戒めても決して裁かず、ゆるし尽くすのです。

 イエスは言われた。
 「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
 マタイによる福音書 18章22節

2.イエス・キリストは愛の模範を示された

 2.1 キリストの愛は人を生かすために自分が痛み苦しんで死ぬほどの愛

 イエス・キリストは、私たちが滅びないで永遠に生きるために、
 十字架にかかって死んでくださいました。それほどに、私たちを愛されました。
 私たちを生かすために、ご自分は痛み、苦しみ、死んでくださったのです。

 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
 わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
 そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。
 ペトロの手紙一 2章24節

 これが、私たちに対するイエスの愛なのです。
 ご自分の楽しみを求めずに、人を生かそうとして苦しみを選ばれたのです。
 大きな大きな犠牲を伴う愛を、イエス・キリストは示されたのです。

 2.2 キリストの愛はご自分の苦しみを主張しない愛

 たとえ自分が傷つき、苦しみ、傷んでも、自分の痛みは二の次なのです。
 隣人にとって、私が痛いとか苦しいとか傷ついたとかは、無関係です。
 隣人を愛するのに、自分が痛いとか苦しいとかは関係ないのです。

 十字架の愛というのは、まさにそういうことなのです。
 「あなたが生きるためならば、私は十字架で苦しみ抜いて死んでもいいのだ」
 というのが、イエス・キリストの示してくださった愛なのです。

 「私は今、十字架の上でこんなに苦しんでいるのだ!よく見なさい!」
 「なぜ、私の苦しみがわからないのか!」
 とイエス・キリストはおっしゃいませんでした。

 2.3 キリストの愛は自分を殺そうとする人をも愛する愛

 そのとき、イエスは言われた。
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
 ルカによる福音書 23章34節 (前半)

 「父よ、彼らをお赦しください。
  自分が何をしているのか知らないのです。」
 と、自分を殺そうとしている人たちのために、とりなし祈っておられるのです。

 十字架の苦しみの中で、イエス・キリストの目は、人々に向けられているのです。
 しかも、ご自分を十字架につけた人々にです。
 それが裁きの目ではなく、赦しの目なのです。

 憎しみの目ではなく、愛の目なのです。
 これが、私たちに対するイエスの愛なのです。
 大きな大きな犠牲を伴う愛を、イエス・キリストは示されたのです。

3.イエス・キリストが愛されたように隣人を愛する

 3.1 私たちは、キリストのように人を愛するために生きる

 イエス・キリストが愛されたように、私たちも互いに愛することが、
 命じられています。

 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。
 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
 ヨハネによる福音書 13章34節

 イエス・キリストのように愛することこそ、私たちへの至上命令です。
 イエス・キリストのように愛することこそ、私たちの最高の使命です。
 イエス・キリストのように愛することこそ、私たちの生きる目的です。

 わたしたちは、イエス・キリストのように人を愛するために生きるのです。
 今私が生きているのは、隣人を愛するためです。
 自分を楽しませるためにではなく、隣人を生かすために生きているのです。

 3.2 私たちの関心は、自分にではなく絶えず隣人に向かう

 ですから私たちの関心は、自分にではなく絶えず隣人に向かうのです。
 「私は何が欲しいか」ではなく、「隣人は何を求めているか」です。
 「私はこんなにひどいことをされた」ではなく「隣人が苦しんでないか」です。

 「私はこんなに苦しんでいる、誤解された、嘲られた」というのではなく
 たとえそのような苦しみを受けても、イエス・キリストの十字架を思い起こし
 「イエスは十字架でそういう苦しみを受けつつも、人を愛されたではないか!」

 「そんな中で、人を愛し通されたではないか」と思い起こしつつ
 キリストと同じ思いで、隣人を愛していくのです。
 隣人を愛するが故の苦しみは、イエスの十字架同様、私自身の十字架なのです。

 3.3 私たちは、自分の十字架を担って愛に生きてゆく

 自分もイエス・キリストと同じように、自分自身の苦しみの十字架を担って
 イエス・キリストのように、隣人を愛して歩んでいこう、
 そういう生き方をしてゆくのです。

 それこそ、神の求めておられる人生の生き方なのです。
 「自分はこうしたい、こうなりたい」とか、「こんなことをされてこんなに苦しい」と
 自分に目をやって、自分のために生きるのではなく、

 たとえ自分がどんな目に会おうと、どんな苦しみに会おうと
 隣人のために自分を犠牲にして、隣人のために自分を使って生きていくのです。
 隣人を愛するために、自分の十字架を負うのです。

 それから、イエスは皆に言われた。
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、
  日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
 ルカによる福音書 9章23節

 結婚生活は、まさにこの「自分の利益を求めない愛」の「訓練の場」なのです。
 そして、そこは互いの愛の「成長の場」なのです。
 その愛は夫婦間で終わることなく、すべての隣人に向かっていくことになるのです。

むすび.

 今日、私たちは何のために生きるでしょうか?
 自分の楽しみのために、自分の利益のために、生きるでしょうか?
 自分が食べたいものを食べ、自分が欲しいものを求め、

 自分がやりたいことのために、お金と時間と心を使って生きるでしょうか?
 神の求めておられるのは、自分を捨てて隣人を愛する愛に生きることです。
 聖書には、最も大いなるものは愛と記されています。

 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
 その中で最も大いなるものは、愛である。
 コリントの信徒への手紙一 13章13節

 日々、自分の十字架を背負って、
 互いに愛し合いなさいと命じられたイエスに従って
 隣人を愛する人生を送って行きたいと、心から願っています。

 【今日の聖書】
 あなたがたに新しい掟を与える。
 互いに愛し合いなさい。
 わたしがあなたがたを愛したように、
 あなたがたも互いに愛し合いなさい。
 ヨハネによる福音書 13章34節


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