だれも雇ってくれないのです
ハローワーク松江は、松江地方合同庁舎の2階にあります。
ここの駐車場は無料ですので、時間を気にせずに仕事を探すことができます。
また雇用保険手続きも、ここで行うことになります。
イエスの時代も、いろいろな仕事がありましたが、
毎日、仕事を求めて探す人もいたようです。
広場に立って、雇ってくれる人を探していたようです。
イエスのたとえ話では、ぶどう園の主人が、
5時まで仕事がなかった人を、雇って働かせた場面が出てきます。
五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、
『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。
主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
マタイによる福音書 20章6〜7節
ところが何と、その人たちの報酬が朝から働いていた人たちの報酬と同じだったのです。
そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。
しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
マタイによる福音書 20章9〜10節
時給単価が、後から雇われた人ほど高くなっていたわけです。
当然苦情が出ます。
それで、受け取ると、主人に不平を言った。
『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。
まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、
この連中とを同じ扱いにするとは。』
マタイによる福音書 20章11〜12節
普通に考えると、不公平なように思います。
しかしこのたとえで、主人はこう語るのです。
自分の分を受け取って帰りなさい。
わたしはこの最後の者にも、
あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
マタイによる福音書 20章14節
そこには、主人の最後の者に対する憐れみが表されているのです。
本来は短時間労働のため、ほんのわずかしかもらえないはずだったけれども
5時まで仕事がなくて落胆し続け、やっと仕事にありつけた人に対する憐れみです。
元々仕事があって、給与の面で安心して仕事をしていた人と違って
仕事のない中で、給与の心配をしながら長時間待っていた人を、
憐れんでいるのです。
仕事の量で判断するのではなく、その人の置かれた状況で判断しているのです。
量で判断しないというのは、レプトン2枚を神にささげた婦人の時も同じです。
イエスは献金額で判断していません。心を見られていたのです。
私たちも人の仕事の評価をする時に、その結果の量で比較して判断しがちですが、
成果物の量で判断するのは、評価を間違う可能性があります。
その人が、どういう状況下でどんな心の中の動機で仕事をしていたか?
それこそが、神の前に問われてくることになるのです。
「俺たちはまる一日、暑い中を辛抱して働いていたのに、
こんな時間にのこのこやってきて、何ができるんだ...」
というような思いで働くことは、決して望まれていることではありません。
そこには、雇い主が現れずにずっと待っていた人に対する愛がないからです。
重要なことは、それが隣人愛を動機としているかどうかなのです。
神の評価は、その成果の量ではなく、心の中の動機にこそあります。
動機が愛であったかどうか、そこが問われてくるのです。
私の今日した仕事の動機は、隣人愛だっただろうか?と吟味するのです。
【今日の聖書】
わたしはこの最後の者にも、
あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
マタイによる福音書 20章14節(後半)