職業によらず全員が罪人
すべての人は罪人であって、正しい人はひとりもいないということが
聖書の中に、はっきりと記されています。
次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
ローマの信徒への手紙 3章10節
1日過ごせば、必ず何らかの罪の思いを抱き、罪の行いをしてしまうのです。
1日に何の罪も犯さないで生活できた!という人がいもしいるとしたら
それは、罪が何であるか知らないか、自分の罪認識が甘いか、
忘れやすいかのいずれかでしょう。
ですから、100%完璧に良い生活ができる人などどこにもいないのです。
しかし、社会的には100%の正しさが求められています。
そこで、二重性が出てきてしまうのです。
人の前では正しく見せかけて、実際のところはそうではないということです。
正しさを求められる職業であればあるほど、それが顕著になってきます。
取り締まりをする警察官は、その心の中も完全に正しいでしょうか?
そんなことはないのです。
警察官になったら罪がなくなるわけではありません。
急いでいて道がすいていたら、わかっていてもスピードを出したくなるはずです。
それが明るみに出ると、警察官がスピード違反をしている!と非難されます。
普通の人よりも、その叩かれ方は大きいのです。
学校の先生もそうでしょう。裁判官なども同じです。
イエスが地上生涯を過ごされた時代、
ファリサイ派の人々や律法学者が、まさにそうでした。
「神の言葉を教えるのだから、自分は義人でなければならない。」
そういう思いが、人一倍強かったのでしょう。でも罪人だったのです。
ですから実際は罪だらけであるにもかかわらず、義人を装っていました。
自分は、徴税人や遊女たちのような罪人ではないんだ!と自己認識したのです。
そこをイエスは厳しく、指摘されているのです。
白く塗られた墓よ!と指摘しています。
律法学者たちとファリサイ派の人々、
あなたたち偽善者は不幸だ。
白く塗った墓に似ているからだ。
外側は美しく見えるが、
内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
マタイによる福音書 23章27節
イエス・キリストによる以外に、罪が赦され義とされる道はないのです。
職業によらずすべての人が罪人で、罪の赦しを必要としており
その罪を完全に赦して義とするために、イエスは十字架で死なれたのです。
イエス・キリストの十字架の血潮によって、すべての罪は赦されたのです。
だから、信じる者はすべて義とされるのです。
【今日の聖書】
けれども、人は律法の実行ではなく、
ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、
わたしたちもキリスト・イエスを信じました。
これは、律法の実行ではなく、
キリストへの信仰によって義としていただくためでした。
なぜなら、律法の実行によっては、
だれ一人として義とされないからです。
ガラテヤの信徒への手紙 2章16節