鶏肉
先日、ご実家が農家だったという方のお話を、伺ったのですが、
その方の実家では、ニワトリが飼われていたそうです。
たくさん飼っていたので、玉子はたくさん捕れたそうです。
野菜も、玉子も豊富にあったそうですが、肉がなかったそうで
肉は、家で飼っているニワトリを絞めて、食べていたそうです。
けれども、その絞めて殺してお湯につけて羽をむしって...
という一連の残酷な作業を、子供の頃に見てしまったため、
鶏肉を食べることが、とてもできなくなってしまったそうです。
大人になってから鶏肉を食べてみて、はじめて
「こんなにおいしかったんだ!」とわかったそうです。
どんなにおいしい鶏肉でも、そんな光景を見てしまった子供に
「鶏肉を食べなさい!」と言ったところで、食べることはできなかったでしょう。
鶏肉とわからないようにして料理を出して、そのおいしさを味わわせて
そのあとで、「それが鶏肉なんだよ」と教えてあげれば
恐ろしい光景を見た後でも、食べれるようになったのではないでしょうか?
1.命令で心が変わらないので力づくで変えようとする
命令というのは、人の心を変えることができません。
命令して変わらないので、力づくで変えようとして問題が起こります。
家庭であれば兄弟げんか、児童虐待、夫婦間のDVになり、
職場や学校であれば、パワーハラスメントになり(ブラック企業・部活)
国家であれば、独裁政治、強権政治、圧政ということになり、
国家間であれば、戦争になります。
2.親が子供に対して命令するのも同じ
今日で夏休み最後という学校もあるかもしれませんが
1、
「宿題をやりなさい!」といくら命令したところで、子供たちに
ちっともやる気が出ないということは、自分自身で経験済みです。
図書館に行って周りが勉強している人ばかりだと、
少しはやる気も出そうですが、あまり効果がなかったのも経験済みです。
周りが勉強していても、自分とはあまり関係ありません。
それよりも、やってもやらなくてもいい状況の時の勉強が
ものすごく進むことに、驚かされます。
やれと言われてやらされることより、面白そうだからやってみようという
そういう方が進むのです。
そこに他の人の意思が入ってないからです。
自分の意思だけだからです。親が命令した時点でこれが崩れてしまいます。
宿題というのは本人の意志とは無関係に、教師が考えたものなので
子供にやる気が出ないのも、当然と言えば当然でしょう。
もし自分で宿題を何にするか考えていたら、自然とやるのではないでしょうか?
3.人の心を変えるのは愛
強制してもその通りにならないのは、本人の意思が変わっていないからです。
要は、本人の意思が変化することが必要なのです。
ザアカイは、その良い例です。
しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。
また、だれかから何かだまし取っていたら、
それを四倍にして返します。」
ルカによる福音書 19章8節
今までとはまったく違う決断をしているのです。
イエスに命じられたからではなく、イエスに受け入れられ信頼されたからです。
すなわち、イエスに愛されたからです。
愛が、ザアカイを変えたのです。
放蕩息子の話は、飢えという苦難が心を変えた例ですが、
苦難の中で父親の元に変える決断をした後、父は走り寄って迎え入れます。
ここにも父親の愛が表されています。
愛にあふれる父親だったからこそ、苦難の時に父の所に帰ろうと
放蕩息子も決断できたのです。
むすび.
神が私たちに与えてくださったのは、自由意志です。
ですから、どんな状況になっても神は、決して自由意志を無視されないのです。
その人が、たとえ永遠の滅びを自分の意思で選択していたとしても、
神は、その人の自由意思を奪うことはなさらないのです。
自分の意思で、永遠の滅びではなく永遠の命を選び取るようになるのを
忍耐強く待たれるのです。
ですから私たちも、隣人の自由意志を尊重しなければならないのです。
強引な命令は、自由意志を踏みつけます。
愛は自由意志をどこまでも尊重します。その上で、その人の最善を求めるのです。
そういう愛が、人を良い方向に変えていくのです。
イエスのザアカイに対する言葉を、いつも思い出していたいと思います。
「ザアカイ、急いで降りて来なさい。
今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
ルカによる福音書 19章5節(後半)
【今日の聖書】
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
神はわたしたちに対する愛を示されました。
ローマの信徒への手紙 5章8節
1松江市の公立小学校は29日から2学期が始まっています