今日のできごと


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2018/4/10(火)



どこにでも主の目は注がれている

1.神はすべての人をつぶさに見ておられる

1.1 誰も見ていないようでも神は見ておられる

 誰にも見られていないようでも、
 どこにでも、主の目は注がれています。
 世界中のすべての人を、神はつぶさに見ておられるのです。

 どこにも主の目は注がれ
 善人をも悪人をも見ておられる。
 箴言 15章3節

 隠れて良いことをしていても、
 隠れて悪いことをしていても、
 全部神の前には、明らかにされているのです。

1.2 至る所にある防犯カメラの比ではない

 最近は、至る所に防犯カメラなどのカメラが設置されていて、
 そこを通るたびに、映されてしまいますが、
 そんなレベルではないのです。

 24時間絶え間なく、世界中のどこにいたとしても
 暗闇の中でも、陽の光の下でも、屋内でも屋外でも
 どこにでも、神の目は注がれているのです。

1.3 取り締まりの目を逃れても神の目は逃れられない

 道路のスピード違反の取り締まりは、
 現在は、全区間では行われていません。取り締まりをしていない所では
 スピード違反をしても、捕まりません。違反が隠れてしまっています。

 しかし神は、すべての場所で、しっかりと見ておられます。
 神の前に、何事も隠すことはできません。
 たとえ捕まらなくても、神はそのことを見て知っておられるのです。

2.神は心を見ておられる

2.1 神はただ行動や現象だけを見ておられるのではない

 ただ単に現象だけを見ておられるのではなく、
 神は人の心を見ておられます。
 私たちが、今何を考え何をどう思っているか、それらをすべて見ておられます。

2.2 サムエルは外見を見てエリアブこそ王だと思った

 サムエルは神に、ベツレヘムのエッサイのもとに行くよう言われます。
 サウル王が、神の前に失格者となってしまったので、
 エッサイの子の内から、次の王を立てると言われたのです。

 主はサムエルに言われた。
 「...
  角に油を満たして出かけなさい。
  あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。
  わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」
 サムエル記上 16章1節

 エッサイには、当時8人の息子たちがいました。(サム上16:10)
 サムエルは、その長男のエリアブを見た時、
 彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思いました。

 彼らがやって来ると、
 サムエルはエリアブに目を留め、
 彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。
 サムエル記上 16章6節

2.3 人は目に映ることを見るが、主は心によって見る

 しかし神はサムエルに「その人ではない」と告げるのです。

 しかし、主はサムエルに言われた。
 「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。
  人間が見るようには見ない。
  人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
 サムエル記上 16章7節

 神が見られていたのは外見ではなく、その心だったのです。
 神はエリアブの心を見て、彼を王にはできないと判断されたのです。
 神がその心を見て王にしようとされたのは、末の子のダビデでした。

 サムエルはエッサイに尋ねた。
 「あなたの息子はこれだけですか。」
 「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」と

 エッサイが答えると、サムエルは言った。
 「人をやって、彼を連れて来させてください。
  その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」

 エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。
 彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。
 主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」

 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。
 その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。
 サムエルは立ってラマに帰った。
      サムエル記上 16章11〜13節

3.神がすべてを見ておられることを信じて生きる

3.1 神がわたしの心の中もすべて見ておられると信じて生きる

 神を信じて生きるということは、
 どこにでも神の目は注がれていて、善人をも悪人をも見ておられる
 ということを、信じて生きることです。

 しかも、その心までも見ておられるということを信じて生きるのです。
 誰も私を見ていなくても、今この瞬間、神が私を見ておられ、
 私の心の中までも見通しておられると、信じて生きることなのです。

3.2 周囲の人のすべてを見ておられると信じて生きる

 ただ単に私のすべてを知っておられるだけではなく、
 私の周囲の人たちの、全ても知っておられると信じて生きることなのです。
 「ひとりひとりが何を思い何を行ったか、すべて神が知っておられる」

 「隠れた良いことも悪いことも全部知っておられる」そう信じて生きるのです。
 たとえ私が人に誤解されたとしても、そのことさえすべて知っておられ、
 冤罪で罪を着せられたとしても、それを知っておられると信じて生きるのです。

3.3 イエスは神がすべて見ておられると信じて生きる生き方を示された

 イエス・キリストは、神がすべて見ておられると信じて生きる生き方を
 私たちに示してくださったお方です。冤罪で十字架刑で死刑にされても、
 ご自分で報復したりせず、神の正しい裁きに任せておられたのです。

 「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、
 正しくお裁きになる方にお任せになりました。
 ペトロの手紙一 2章22〜23節

 自分で報復しようなどとは考えないことを、イエスは身をもって示されたのです。
 私たちも、イエス・キリストのように、神がすべてご存知であると信じて
 正しくお裁きになる方である神に、すべてをお任せして生きるのです。

むすび. 神がすべてを見ておられると信じて生きよう!

 どこにでも神の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられます。
 それを信じて、私たちは生きていきます。
 ですから誰も見ていなくても、あらゆる罪から離れて生きていくのです。

 誰かから何かの被害を受け、誰がそれをしたかわからなくても、
 神がそれをちゃんとご存知であると、信じて生きるのです。
 そして、神が正しくお裁きになってくださると信じて生きるのです。

 罵られたり、嘲られたり、誤解されたり、無視されたりしたとしても
 物を盗まれたり、壊されたり、傷つけられたりしたとしても、
 全部神が知っておられると、信じて生きるのです。

 まただれも聞いていなくても、
 私の心の声を、叫びを、そのすべてをいつでもどこでも神が聞いておられると
 信じて生きるのです。

 神は必ず正しい裁きをして下さいます。

 まして神は、
 昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、
 彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
 ルカによる福音書 18章7節

 何があっても大丈夫です。神が見ておられるのです。
 問題は、神の目の前にわたしが正しく生きているかどうかです。
 神に喜ばれる思いを今、持っているだろうかということです。

 神は今、愛の目をもって私をつぶさに見ておられるのです。

 【今日の聖書】
 どこにも主の目は注がれ
 善人をも悪人をも見ておられる。
 箴言 15章3節

 今日は公立小学校の、入学式でした。
 桜はほぼ散っていましたが、八重桜は何とか咲いていました。

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