人はなぜ放蕩息子のようになってしまうのか?
1.父の元から遠く離れ去った弟息子
ルカによる福音書15章には、放蕩息子の話が出てきます。
弟の方が父親に、
『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』
と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、
遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、
財産を無駄使いしてしまった。
ルカによる福音書 15章12〜13節
息子たちの中の、弟の方は
何日もたたないうちに、受け継いだ財産全部を金に換えて、
遠い国に旅立ちます。父親から遠く離れるわけです。
この話は、特別な人だけに当てはまる内容ではなく
人間誰しもが、そういう要素を持っているので、
程度の差こそあれ、すべての人に当てはまる内容と思われます。
2.弟息子には父の素晴らしさが見えていなかった
なぜ弟は、父親から遠く離れていってしまったのでしょうか?
その要因の一つは、「父親の内にある良いものが見えていなかった」
ということがあるように思います。
「父親が、どれ程自分に良くしてくれていたか」
「父親が持っているものが、どれほど素晴らしいものなのか」
「父親の元にいるということが、どれほど恵まれた状態なのか」
それがわかっていなかったと、いえるのではないでしょうか?
だから、父親なしでも生きていけると考え、自分ひとりで生きて行こうと
考える結果になってしまったのでしょう。
3.神の素晴らしさを理解できていないと離れてしまう
そう考えると、私たちもそれと同じ罪の性質を持っていますので、
同じ過ちを犯していないか、自分自身を吟味する必要があります。
父親を神と置き換えて、弟を自分に置き換えて考えるのです。
神が、どれ程私に良くして下さっておられたか
神の持っておられるものが、どんなに素晴らしいものなのか
神のそば近くにいるということが、どれほど恵まれた状態なのか
果たして、正しく理解していただろうか?
神の良くして下さったことを、簡単にいともたやすく忘れ去っては
いなかっただろうか?
神の持っておられるものは、私の持っているものよりも
比べ物にならない程、超越的に素晴らしいと理解していただろうか?
神の持っておられる良いものを、神に願い求めていただろうか?
神のみこころを考えず、自分の考えだけで行動したい、
それでうまくいくはずだ、と思ってはいなかったか?
心の奥底のどこかで、そのように考えてはいなかっただろうか?
それを、よくよく吟味する必要があるのです。
もし弟息子が、
「父親が、どれ程自分に良くしてくれていたか」
「父親の持っているものが、どれほど素晴らしいものなのか」
「父親の元にいるということが、どれほど恵まれた状態なのか」
ということを、正しく理解していたら、決して家を出ることはなかったでしょう。
むすび.神をもっともっと深く知って行こう!
私たちのなすべきこと、それは神をもっともっと深く知っていくことなのです。
神が、どれ程素晴らしい恵みを与えて下さるお方なのか、
それを知れば知るほど、決して神から離れられなくなっていくことでしょう。
今日も、更に神を求めて祈っていきた願います。
ホセア書6章には「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。」
と書いてあります。そのように、主を知ることを追い求めていきたく願います。
新共同訳聖書のこの段落には「偽りの悔い改め」というタイトルが
ついていますが、私たちは偽りでなく、本心から主を知ることを
求めていきたいと願います。
【今日の聖書】
我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ
降り注ぐ雨のように
大地を潤す春雨のように
我々を訪れてくださる。」
ホセア書 6章3節