聖霊に満たされているかどうかのチェック
1.実で判断する
今自分が聖霊に従って生きているかどうか、
どうすればわかるでしょうか?
例えば、植物を判別するにはどうするでしょうか?
この木は何の木だろう?と思った時、
1年中で一番わかりやすいのは、実をつけた時でしょう。
リンゴの実を結べば、その木はりんごの木だとわかります。
木を判別するのに実を見るように、実を見ればいいのです。
自分は今どういう実を結んでいるだろうか?
人を愛しているだろうか?喜んでいるだろうか?
というように、聖霊の結ばせる実を結んでいるかどうか
これが、ひとつの判断基準になってきます。
聖霊に満たされていると、聖霊の実を結びます。
2.聖霊の結ばせる実を結んでいるか?
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、
寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
これらを禁じる掟はありません。
ガラテヤの信徒への手紙 5章22〜23節
聖霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、
寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
したがって、これらのひとつひとつの実と自分の状況を比べてみるのです。
聖霊に満たされているのに、隣人を愛しませんということはあり得ません。
聖霊に満たされているのに、喜んでいませんということもあり得ません。
聖霊に満たされているのに、少しも平和でないということもあり得ません。
聖霊に満たされているのに、寛容ではありませんということもあり得ません。
聖霊に満たされているのに、親切ではありませんということもあり得ません。
聖霊に満たされているのに、善意をもってませんということもあり得ません。
聖霊に満たされているのに、誠実ではありませんということもあり得ません。
聖霊に満たされているのに、柔和ではありませんということもあり得ません。
聖霊に満たされているのに、節制できてませんということもあり得ません。
聖霊の結ぶ実を結んでいないのに、聖霊に満たされているとはいえないのです。
もし自分が、聖霊の結ばせる実を結んでいないなら、
聖霊に満たされている状態ではないでしょう。
このように、ガラテヤの信徒への手紙5章22〜23節の言葉と、
自分の状態とを比較することによって、判別することができるのです。
もし実を結んでいなければ、聖霊の満たしを求めて祈るべきなのです。
3.肉の業をしていないか?
もうひとつの判断基準は、肉の働きと比べてみることです。
聖霊に満たされていれば、肉の業に捕らわれてはいません。
肉の業は下記の通りです。
肉の業は明らかです。
それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、
敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、
泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。
以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、
このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
ガラテヤの信徒への手紙 5章19〜21節
聖霊に満たされているのに、姦淫をしているということはあり得ません。
聖霊に満たされているのに、わいせつ、好色で心がいっぱいということはなく
聖霊に満たされているのに、偶像礼拝や魔術をしているということもあり得ません。
聖霊に満たされているのに、敵意や争いや不和や仲間争いがあるということはなく
聖霊に満たされているのに、そねみや怒りや利己心やねたみがあるということもなく
聖霊に満たされているのに、泥酔や酒宴に身を任せているということもないのです。
肉の業と聖霊の結ぶ実は、相反するものです。
両立はしません。どちらか一方しか存在しえないのです。
沸騰した氷がないように、聖霊に満たされながら肉の業を行うこともあり得ません。
怒りながら柔和ということは、あり得ないのです。
聖霊に満たされながら、人を赦さないということもあり得ません。
むすび.聖書の言葉に照らして自分を見てみる
このように、聖書の言葉に照らして自分自身の心を見ていく時
自分が今、どんな状態なのかということを判別することができるのです。
聖霊の結ばせる実を結んでいないとするならば、聖霊の満たしを求めましょう。
肉の業に該当するならば、肉の業を捨てる決断をして聖霊の満たしを求めましょう。
私たちは、聖霊によって歩むべきであって、肉に従って歩むべきではないのです。
今日も聖霊によって歩んでいきましょう!
【今日の聖書】
キリスト・イエスのものとなった人たちは、
肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、
霊の導きに従ってまた前進しましょう。
ガラテヤの信徒への手紙 5章24〜25節