信仰
1.神がアブラハムに与えられた子孫の約束
1.1 あなたを大いなる国民にする
アブラハムが75歳の時から、神はアブラハムに
彼の子孫が増えるという祝福の約束を、なさっておられます。
まず「あなたを大いなる国民にする」という約束をされました。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
創世記 12章2節
1.2 あなたの子孫を大地の砂粒のようにする
そして「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」という
約束が続きます。
あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。
大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。
創世記 13章16節
1.3 あなたの子孫は星の数のようになる
さらに、「あなたの子孫は星の数のようになる」とまで言われます。
主は彼を外に連れ出して言われた。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」
そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
創世記 15章5節
アブラハムはこの神の言葉を信じて、義とされたのです。
2.その後10年間何も起きなかった
2.1 現実は神の約束とは程遠いものだった
ところが、アブラハムの75歳から85歳までの
10年間を見てみるとどうでしょうか?
何も起きていないのです。
神が「子孫を増やす」と約束されているにも関わらず、
現実はちっとも変っていなかったのです。
10年経ってもです。
「神の約束と現実の状況の食い違い」
これをアブラハム夫妻は、毎日目の当たりにして、生きていたのです。
「神は約束されているのに、いつまで経っても子供が生まれない」という状況です。
2.2 疑問が生じていたことだろう
「子どもが生まれないのに、自分たちはどんどん年をとっていく」
「確かに財産は増えてはいるが、肝心の子どもがいない」
「いったいどうなっているのだろう?」
そんな疑問も、きっと湧いていたことでしょう。
「いや、でも必ず与えられるはずだ」と打ち消しても、
現実には「でも何も起きていない...」という状況なのです。
これを10年間続けていたわけですから、
どんどんその疑問は、大きくなっていったと思います。
年を経るにつれ、徐々に焦る気持ちも出て来たのではないでしょうか?
2.3 ついに人間的手段を講じるがそれも違った
ついにサラの方が耐えきれなくなって、
自分に仕えているハガルを側室にするという提案を、夫にしてしまうわけです。
アブラハムもその提案を、そのまま呑んでしまいます。
でもそれは人間的提案であって、神の祝福とは程遠いものでした。
ハガルとの間に、たとえアブラハムが子をもうけたとしても、
それは神の約束された子どもでは、なかったのです。
3.信仰とは待つことであり、見えないことを信じること
3.1 神はアブラハムを待たされた
神は待たされたのです。
75歳から100歳までの25年間という月日を、待たされたのです。
とても長い期間です。生まれたての子どもでも、立派な大人になっている年月です。
3.2 信仰とは必ずその日が来ると信じて待つこと
信仰とは「待つこと」であるということを教えられます。
「待つことこそ信仰」なのです。信仰がなければ、待てません。
信仰とは「必ず約束が成就するその日が来る」と信じて「待つこと」なのです。
3.3 信仰とは見えないことを信じること
さらに信仰とは
「現実はまったくそれとは逆の状況であったとしても」
見える状況で判断せずに「信じること」なのです。
もし、「子孫が増える」という神の約束を受けた時に、
アブラハムにすでに子どもが、何人もいたなら、
この約束は、簡単に信じられたことでしょう。既に目に見えているからです。
本当の信仰というのは、目に見えていない事を信じることです。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
ヘブライ人への手紙 11章1節
「見えていることを信じる」ということはあり得ません。
それは信仰ではなく、単なる事実の確認に過ぎないからです。
信仰とは、見えない事実を確認することなのです。
昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
ヘブライ人への手紙 11章2節
昔の人たちは、見えない事実を確認する信仰をもっていたのです。
アブラハムとサラは、その模範なのです。
現実はまったくそれとは逆の状況であったにもかかわらず、信じ切ったのです。
信仰によって、不妊の女サラ自身も、
年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。
約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。
それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、
また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。
ヘブライ人への手紙 11章11〜12節
むすび.現実が逆の状況である時こそ信仰を働かせるチャンス
まったく逆の状況である時こそ、信仰を働かせるまたとない絶好のチャンスです!
ない時、できない時、うまくいかない時、行き詰った時こそ、
神の絶大な力と助けを信じて求める、絶好のチャンスなのです。
まだまだ必要なのに、全くなくなってしまった時、
水をぶどう酒に変えてくださったイエスを、信じます。
少ししかない時にも、5つのパンと2匹の魚で5千人を養われたイエスを信じます。
知恵が必要なのに知恵がない時、ソロモンに知恵を与えて下さった神を信じます。
力強くありたいのに力がない時、サムソンに力を与えて下さった神を信じます。
救われて欲しいのにその人が変わらない時、ザアカイを変えられたイエスを信じます。
神のために力強く働きたいのに、自分の罪深さに打ちのめされた時、
3度イエスを知らないと言ったペトロを完全に赦し、
彼を聖霊に満たして、大きく用いられたイエスを信じます。
なすべきことが多くあるのに、妨害や攻撃にあって何もできなくなってしまった時、
ヘロデの手によって牢獄に入れられたペトロを、助け出された神を信じます。
フィリピの牢獄から、パウロとシラスを助け出された神を信じます。
勇気をもって立ち向かっていかなければならないのに、
臆してしまい弱気になってしまった時、
ギデオンを勇士にして下さった神を信じます。
これからもどんどん進めていかなければならない状況なのに、苦難で行き詰った時、
耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ったパウロたちを励まし
再び立ち上がらせてくださった神を信じます。
病気が続くとき、12年間出血が止まらなかった女性を癒されたイエスを信じます。
ベトザタの池のほとりの38年間病気だった人を癒された、イエスを信じます。
絶望的状況の時、ラザロを墓から生き返らせたイエスを信じます。
今日も、目に見える状況が私たちの望んでいる状況と
まったく逆の状況であったとしても、失望落胆せずに逆に
「信仰を働かせるべき絶好のチャンス」と思って、大いに信仰を働かせてきましょう!
【今日の聖書】
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神が存在しておられること、
また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、
信じていなければならないからです。
ヘブライ人への手紙 11章6節