ヤコブの絶望は本当は喜びの始まりだった
父ヤコブは息子たちに言った。
「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。
ヨセフを失い、シメオンも失った。
その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。
みんなわたしを苦しめることばかりだ。」
創世記 42章36節
飢饉の苦しみの中、ヤコブが子供たちにエジプトへ穀物を買いに行かせると
シメオンが帰って来ませんでした。捕らえられてしまったのです。
おまけに次回来るときはは、ベニヤミンを連れて来いと言われてしまいます。
ヤコブにとっては、絶望的なできごとでした。
もし愛する我が子ベニヤミンになにかあったら、
もう生きてはいけない、そう思ったのです。
しかし、ヤコブは言った。
「いや、この子だけは、お前たちと一緒に行かせるわけにはいかぬ。
この子の兄は死んでしまい、残っているのは、
この子だけではないか。お前たちの旅の途中で、
何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、
お前たちは、この白髪の父を、
悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのだ。」
創世記 42章38節
しかし、全く逆でした。
絶望的でも、失望落胆でも、恐れるべきことでも何でもなかったのです。
実は大いなる喜びにつながっていたのです。
ヨセフが大臣になっているなど、夢にも思っていなかったヤコブですが、
そのヨセフと再会する感動的出来事が、待ち受けていたのです。
ベニヤミンを手放しさえすれば、それが現実のものとなるのでした。
私たちも、失望落胆して、絶望的になってしまうことがあります。
しかし実は、まったくその逆であることがあるのです。
大いなる喜びへと続いていたりするのです。
短絡的に、もうだめだと考えてしまってはならないのです。
イエス・キリストは十字架について死んでしまった!もうだめだ!
ではなかったのです。三日目に見事に復活しているのです。
神が共にいるならば、もうだめだはあり得ません。
もう駄目なように見えて、実は素晴らしい祝福に続くのです。
問題は、私たちがそれを信じれるかどうかなのです。
信じましょう!
【今日の聖書】
栄誉を受けるときも、
辱めを受けるときも、
悪評を浴びるときも、
好評を博するときにもそうしているのです。
わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、
人に知られていないようでいて、よく知られ、
死にかかっているようで、このように生きており、
罰せられているようで、殺されてはおらず、
悲しんでいるようで、常に喜び、
物乞いのようで、多くの人を富ませ、
無一物のようで、すべてのものを所有しています。
コリントの信徒への手紙二 6章8〜10節