かつての松江の中心地「末次」の大火
1.東本町が区画整理されている理由
現在の松江市東本町は、昭和6年5月16日の末次大火で消失した地域です。
松江城の近辺にあって、そこだけ城下町の風情とはまったく異なる街並みです。
小路もほとんどなく、碁盤の目のように整然とした区画になっており
センターライン付きで車が普通に走れ、その一帯は城下町を感じさせません。
江戸時代にはなかったであろう、普通の昭和の街並みになっています。
その原因は、末次大火によって小路に消防車が入れなかったことから
消防車が入りやすいようにと、区画整理した結果だということです。
昭和6年5月16日15時25分に起きた、末次大火については、
東本町五丁目町内会誌によれば、以下のように記録されています。
「松江大橋北詰の旅館から発生、強い西風によって延焼し、
末次本町・紙屋町・元材木町・末次魚町・鍛冶町・漁師町・御船屋町・
母衣町(一部)を焼き、向島町に至ってやむ。
焼失家屋は628戸。焼失区域の一部は区画整理が実施され、
末次本町以東の罹災地全部は東本町と改称された。」1
18時30分に鎮火するまで、実に628戸(657戸という資料もある
2)が
焼失し、松江市内をはじめ、周辺市町村の消防隊約3500人が駆けつけ
4000人ほどで消火にあたったそうです。
被災者は、約3000人で被害額約250万円と言われています。
2
ですから、松江市東本町の建物は、どんなに古くても昭和6年を越えないそうです。
古い建物もありますが、昭和6年以前ではないそうです。(京店通りは違います)
2.交通手段の変遷にリンクした街の変遷
昨日はこの東本町界隈について、松江市史編纂絵図・地図部会長の大矢幸雄氏と
NPO法人まつえ・まちづくり塾の堀江一夫氏の両氏から、教えて頂きました。
堀江さんとは、実際に一緒に現場に足を運んで、説明を伺いました。
元々江戸時代から松江の街は、大橋を挟んで白潟地区と末次地区の
2つの地域を核として形成されていたそうです。運搬手段はもっぱら船ですので
船からの荷揚げや、船への積み込みに適するように形成されていたようです。
その後、鉄道が明治41年11月8日に開通し、松江駅ができます。
それまでの船舶での輸送が、鉄道輸送にかわり駅周辺が発展していきます。
けれども、車が普及していなかったため、昭和30年代後半までは、
徒歩中心で生活する街並みが形成されていました。道も土だったそうです。
それが、昭和40年代からのモータリゼーションによって、変わったそうです。
徒歩から車へと移動手段が変わり、表通りを車が通り
それまで使われていた、小路が使われなくなります。
モータリゼーションの結果、車社会に適応するように街が変わるとともに
住宅も街の変化に応じた形で、建てられていったようです。
ちょうど団塊の世代の方々が、住宅を建てられた時期とも一致しています。
車の普及が、徒歩の街松江の街並みを、大きく変えていったことがわかりました。
なぜ昭和40年代の住宅や建造物が多いのかも、なるほどと理解できました。
3.現在の松江市の中心はどこか?
江戸時代から明治にかけて、末次や白潟が人口も密集していて
賑わいを見せていましたが、現在は末次は観光中心の地域となり、
白潟は、人通りも店舗も少なくなりとても静かになりました。
松江城近辺は、観光施設と県庁などの官公庁が混在するエリアとなり、
経済的中心地というよりも、政治と観光の中心地という感じがします。
休みの日となると、観光の方々が多く見受けられるようになる地域です。
松江駅前も、それなりに商業施設はありますが、やはり車社会なので
車で職場と自宅を行き来する人々にとっては、あまり関係のないエリアです。
都心のような、誰もが通勤通学に電車を使うという形態ではないためです。
島根大学周辺は、学生対象のお店も多く
学生が数多く居住していて、とてもにぎやかではあります。
しかし、大学生中心という偏りがあります。
現在の松江の住宅の動きから見てみると、居住地域は橋北から
橋南地域に移行しつつあるように、見受けられます。
小学校の児童数も橋南が群を抜いています。
住宅の中心が橋北から、橋南に移っているようです。
橋南も、従来の古志原地区よりも更に南の
大庭の開発が進み、
乃木地区の南の田和山の開発が、進んでいます。
両地域とも、大型店舗や広い駐車場が、どんどんできてきています。
道路事情と駐車場規模は、やはり既存地域より新規開発地域が優勢です。
ということで、現在の松江市の中心はどこかといえば、
すでに開発の余地がなくなっている、松江城周辺や松江駅周辺ではなく
片側2車線の太い幹線道路が通り、それを軸にして広い駐車場のある
大型店舗が増えている地域、すなわち橋南地域なのではないでしょうか?
むすび.
かつての末次・白潟中心が、駅中心に変わっていったように、
人々が集まる構図が変わりつつあるように、感じられます。
従来からの地域は、土地の確保が難しく、駐車スペースの確保も難しく、
人々が集まりにくくなっているように、思われます。
車社会に完全に移行してしまった現在、いかに広い駐車場を確保するかが、
人が集まるキーポイントになっているようです。
末次の大火は、従来の街並みを変え、今の東本町を形成しました。
しかし、町の中心は末次から他の地域へと変遷していきました。
時代と共に、町自体がその構造を変えていったことがわかります。
遠く古墳時代は、松江の中心は大庭の国府跡のあたりでした。
江戸時代になって、松江城が築城され、中心はそちらに移り、
商業の中心は末次と白潟になりました。
その後、鉄道の開通と共に松江駅前が発展しましたが、
今また、松江の賑わいが駅前から他の地域へと動きつつあるようです。
一体人々は、どういうところに集まるのでしょうか?
人は、自分のニーズを満たしてくれるところに集まります。
自分の必要を最もよく満たしてくれるところに、行きたくなるのです。
私たちの本当の必要を満たすのは、城でも駅でもなく教会なのです。
【今日の聖書】
次の安息日になると、
ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。
使徒言行録 13章44節
1松江市東本町五丁目町内会/編 , 島田成矩 , 勝部正郊/著.
雷電・御船屋・漁師町 : 松江市東本町五丁目町内会誌.
松江市東本町五丁目町内会, 1981.
2山陰中央新報社/編. 新聞に見る山陰の世相百年
: 山陰中央新報創刊100周年記念. 山陰中央新報社, 1982.