近世後期における出雲の鉄師
今日は松江工業高等専門学校の人文科学科の鳥谷智文先生より
「近世後期における出雲の鉄師」について、お話を伺いました。
鎌倉時代さらに平安時代から
鈩製鉄は存在していましたが、
今回は、江戸末期から明治にかけての
鈩鈩製鉄についての話でした。
鈩製鉄というのは、次のような工程で鉄を生産する仕組みです。
@砂鉄+A木炭+B
釜土→
鈩場→
Cヒ(1〜3.5t)
+
D銑(一部販売:鋳物)
Cヒ→
大どう場→
E鋼(100% 販売:刀の材料)
+
F歩ヒ(100%次工程へ)
D銑(残り)
+
F歩ヒ
+G木炭→
大鍛冶場→
H包丁鉄I割鉄・小割鉄(100% 販売)
出雲の山間部ではこの
鈩製鉄が盛んで、
鉄師と言われる人々が
大勢いたということです。
代表的なのが
田部家で、
櫻井家、
絲原家、
卜蔵家、と続きます。
明治時代初頭までは、田部家だけで
鋼、
銑、
ヒ、
割鉄合わせて
年間10万貫目(375トン)以上の販売量があったということで、
西洋の溶鉱炉が入ってくるまでは、かなり盛んだったようです。
溶鉱炉の鉄は質は劣るのですが、格安に作れるため、
徐々に押されていってしまい、
鈩製鉄はなくなっていったそうです。
奥出雲や雲南には、
鈩製鉄の史跡が数多く残されているそうです。
【今日の聖書】
あなたがたの信仰は、
その試練によって本物と証明され、
火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、
イエス・キリストが現れるときには、
称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
ペトロの手紙一 1章7節