今日のできごと


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2017/9/13(水)



なぜ100デナリオンをゆるせなかったのか?

 1.家来は1万タラントンの負債を帳消しにされた

 1万タラントンの借金を、王にゆるされた家来の話を、
 イエスは弟子たちに、話されました。

 そこで、天の国は次のようにたとえられる。
 ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。
 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、
 王の前に連れて来られた。

 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、
 自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』と
 しきりに願った。

 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、
 その借金を帳消しにしてやった。
 マタイによる福音書 18章23〜27節

 1日の日給を1デナリオンとして、1年に3百日働くとするとします。

 年収は、3百デナリオンとなります。
 1タラントン=6千デナリオン=6千日分の給与
 1タラントン=(6千日÷3百日)年分の給与=20年分の給与

 1万タラントンは、上記の1万倍ですから、
 1万タラントン=6千万デナリオン=6千万日分の給与
 1万タラントン=(6千万日÷3百日)年分の給与=20万年分の給与

 日本円で考えて、1デナリオン=1万円とすると、年収は3百万円です。
 1万タラントン=6千万デナリオン=6千億円となります。
 1万タラントン=(6千億円÷3百万円)年分の給与=20万年分の給与

 ですから家来は、20万年分の給与と同額の負債を、
 帳消しにされたことになるのです。途方もない額です。
 年収1千万円としても、6万年分の給与ということになります。

 2.家来は100デナリオンの負債をゆるせなかった

 その家来に100デナリオンを借りている人がいました。
 年収300デナリとすれば、4か月分の給与程度です。

 ところが、この家来は外に出て、
 自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、
 捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。

 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
 マタイによる福音書 18章28〜30節

 家来は何と返せと言います。100デナリをゆるせなかったのです。
 20万年分ゆるされたのに、4か月分(3分の1年分)をゆるせなかったのです。
 自分のゆるされた額の60万分の1をゆるせませんでした。

 そこで、王は怒ります。

 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。
 『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
  わたしがお前を憐れんでやったように、
  お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、
 家来を牢役人に引き渡した。
 マタイによる福音書 18章32〜34節

 3.なぜ家来は100デナリオンをゆるせなかったのか?

 可能性としては、以下のようなことが挙げられるのではないでしょうか?

 (1) 多額の負債をゆるされたことが、頭から抜けてしまっていた
 (2) ゆるされた負債の大きさを過小評価していた(十デナリオン程度)
 (3) 王のゆるしを信じていなかった(帳消しなんてあんなの嘘だ)
 (4) 自分はゆるされたけれど、自分は人をゆるさなくていいと考えていた

 (1) ゆるされたことが、すっかり頭から抜けてしまっているということは
   ゆるされた時だけ喜んで感謝して、そのあとはそれを当然のことのように
   思ってしまい、その結果時間と共に、どんどん感謝が薄れていった状態です。

 (2) ゆるされた負債の大きさを過小評価してしまうこともあるでしょう。
   20万年分の給与という、とてつもない大きさの負債の場合
   ちょっと想像がつきにくいので、ついつい小さく勘違いしてしまうのです。

 (3) 負債額の大きさから考えて、やっぱり王がそれを帳消しにするなどあり得ない!
   あとでまたいくらかの請求が来るかもしれない!と恐れてしまうと、
   返済しなければという思いが消えず、人もゆるせなくなってしまうでしょう。

 (4) 自分はゆるされたけれど、自分に対する借金は絶対全額返済させるべきだ、
   自分の王への借金の帳消しと、この人の私に対する借金の間には
   何の関係もない!それはそれ、これはこれでしょうと、大きな誤解を
   していると「私はゆるしません」ということになってしまいます。

 むすび.

 イエス・キリストの十字架の血潮による罪の赦しは、信じるものすべてに
 無償で提供されているものです。何の対価も要りません。
 ただ信じるだけでいいのです。自分の罪を認めて、赦しを受け取るのです。

 そしてその赦しを信じたことを、人を赦すことによって表していくのです。
 赦しを受け取ることと、人を赦すことはリンクしているのです。
 しかし、赦しを信じた後で陥りやすいのが、今回の4つの状態です。

 (1) 罪を赦されたことが、すっかり抜け落ちてしまう(赦しの恵みの忘却)
 (2) 自分はそんなにひどい罪人じゃないと思う(自分の罪の過小評価)
 (3) こんなひどい罪人なのに本当に赦されたのだろうか?(赦しの過小評価)
 (4) 十字架の赦しと、人を赦すこととは別だと考える(十字架の赦しの誤解)

 真の悔い改めは、人を赦すことによってその真実さが現れます。

 イエス・キリストの罪の赦しを受け取ったのに、人を赦さないならば
 「あなたは本当に自分の罪を認めて、罪の赦しを受け取ったのですか?」
 と問われることになります。

 もし、それでも人の罪を赦さないというのであるなら、
 それは、自分がイエス・キリストの十字架で赦されたということを
 否定することになってしまいます。

 6000億円ゆるされたのに、100万円ゆるせない?
 実は6000億円のゆるしを受け取ってないのではないですか?
 そういうことになってくるのです。

 ですから、そういう状態に陥らないように、いつも赦しの恵みを主に感謝し、
 自分の罪の大きさを認め、十字架の赦しの大きさを信じ
 赦されたことを信じているその信仰を、人を赦すことによって表してゆく、
 そういう信仰生活を送っていくのです。

 【今日の聖書】
 「人を裁くな。
  あなたがたも裁かれないようにするためである。
  あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、
  自分の量る秤で量り与えられる。
  あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、
  なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
 マタイによる福音書 7章1〜3節


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