イエスの言葉だけでいやされた百人隊長の僕
昨日は、地域の牧師の早天祈祷会でした。
聖書箇所は、マタイによる福音書8章5〜13節で、
百人隊長の僕の、中風の癒しの個所でした。
1.イエスが「そこに行かなくても」言葉だけでいやされた
イエスが、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われたとき
「ただ、ひと言おっしゃってください。
そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と百人隊長は言います。
それを聞いたイエスが、その信仰に感心され、その信仰をほめます。
そして、百人隊長に「あなたが信じたとおりになるように。」と言われ
ちょうどそのとき、僕の病気がいやされたという話です。
2.イエスが「どこにおられるか」ということは癒しと無関係
信仰というのは、目に見えないものです。
イエスのいやしの業も、別にイエスの体とは無関係になされます。
イエスが病人の所に行かなくても、なされます。
イエスの体が、病人のそばに行かなければならないとか
イエスの声が、病人に聞こえなければならないとか
イエスの手が、病人に置かれなければならないというわけではありません。
百人隊長の僕は、ただイエスの言葉だけでいやされています。
僕は、イエスに触れられてもいなければ、声もかけられていないのです。
それどころか、イエスの姿さえ見ていないのです。
3.イエスの言葉だけで十分だった
しかし完全にいやされています。
信仰によるいやしとは、そういうことです。
イエスの言葉さえあれば十分なのです。
目に見えるもの、物質的なことは、実は関係ないのです。
いやしは、実際に目に見える体に起こっていますが、それは
目に見えない領域で、まず起こっているのです。
信仰というのは、見えない領域に関わるものなのです。
だから言葉だけで十分だったのです。
イエス・キリストの遠方での言葉が、僕をいやしています。
むすび. 信仰によっていやされる
ですから今、イエス・キリストを見ることができない現在でも
いやしは起こるのです。イエス・キリストの体が見えなくても
まったく関係なく、信仰によっていやされるのです。
問題は、信じるかどうかです。
イエス・キリストは言われました。
「あなたが信じたとおりになるように」
【今日の聖書】
さて、イエスがカファルナウムに入られると、
一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」
と言った。そこでイエスは、
「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
すると、百人隊長は答えた。
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような
者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。
そうすれば、わたしの僕はいやされます。
わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、
一人に『行け』と言えば行きますし、
他の一人に『来い』と言えば来ます。
また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。
「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、
わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、
天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。
そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
そして、百人隊長に言われた。
「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」
ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。
マタイによる福音書 8章5〜13節