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過去の説教 聖書箇所
2018年3月18日(日) マルコの福音書 10章35-45節

35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」

36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」

37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」

39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。

40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」

41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。

42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖(あがな)いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」


(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2018年3月18日(日)  四旬節第五主日


イエスは多くの人の贖いの代価     マルコの福音書 10章35-45節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

今、テレビをにぎわしているのは、財務省における森友関連の公文書改竄問題です。私もこのところテレビの前に座っている時間が長くなりました。今週から渦中の佐川元理財局長が証人喚問されるかもしれないというので、テレビの前にいる時間がますます長くなりそうです。官僚は誰もが入省時の研修で、誰からも後ろ指をさされないように誠実であれと教育を受けるそうです。誠実であるからこそ、国民から信頼されるわけです。それなのに、今も、そしてこれからも、後ろ指をさされるような事態に佐川元理財局長が陥るとしたら、本当に哀れです。すでに近畿理財局の方が一人自殺したというニュースを聞いて、この問題の闇の暗さと深刻さを感じております。佐川元理財局長がもし証人喚問されるなら、真実を述べ、そしてまた罪を犯していたのなら、その罪を償い、国民の信頼を取り戻していただきたいと願っております。

人間はそもそも自分自身の造り主である神様を知らないという原罪を犯している存在です。特に多くの日本人は、人間は造られたのではなくて進化したのだ、と主張してはばかりません。自然に進化してきたのであって、神が自分を造ったのではないと主張しているのです。これはまさに進化論を神としている行為であって、出エジプト記20章3節に記されている御言葉、「あなたは、わたしの他に、他の神々があってはならない。」というモーセの十戒の第一戒に違反しています。この様に日本人に限らず、全ての人は神を知らないという状態で生まれてきます。つまり罪を犯すように造られて生まれてくるのです。ですから罪を犯さない人間は一人もいないのです。それどころか、罪に罪を重ね、それも何重にも罪を重ねる性質を持つ存在なのです。話は前に戻りますが、官僚は誠実であれと入省時に教育を受けるのは、人間は簡単に罪を犯しやすい存在だからとも言えます。ですから誠実であれ、正直であれ、と徹底的に教え込まれ、ある意味で機械の歯車のように正確に動作するように求められています。しかし、人間は機械ではありません。感情を持った生き物で、人間社会の中で生きています。人間関係の力学によって、罪を犯さざるを得ない場合も出てきます。この様にいくら訓練を受けた人でも罪を犯してしまうのです。否が応でも罪を犯してしまうのです。特に偉い人になりたいと思う人は、人間関係の中で、罪を犯すという誘惑にかられる機会が多くなってきます。

 

本日の聖書箇所にも、偉くなりたいと思う人達が登場します。ヤコブとヨハネの二人だけではありません。41節を見ますと、「十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。」と書いてあります。ヤコブとヨハネが抜け駆けをしたので、他の弟子たちが腹を立てたのです。この様に弟子達全員に、偉くなりたいという思いがあることが分かります。つまり罪の誘惑にかられる機会が多くなることに、気付かずにいるのです。しかし、人間は皆上昇志向を持っていますから、多少の罪の誘惑の危険を気にしてはいません。

ところでどうして突然、この上昇志向の感情が十二弟子たちの心に沸き上がってきたのでしょうか。それは本日の聖書箇所の直前の33節と34節で、イエス様が三度目の受難預言をしたからでした。「人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」

この受難預言を聞いたとき、弟子たちは、数か月前にピリポ・カイザリヤで聴いた、最初の受難預言と、それにまつわるイエス様のお話を思い出したのです。イエス様がピリポ・カイザリヤで受難預言をした時、弟子たちはびっくりして、激しく反応しました。ペテロが弟子たちを代表して、イエス様をいさめています。この時ペテロはイエス様から「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と厳しく叱られています。それと同時にこのようなことも言われました。マルコの福音書8章38節です。「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて、聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」イエス様はこの言葉で、わたしを恥じる者は、わたしも父の栄光を帯びて再び来る最後の審判の時にその人を恥じますと言われました。この御言葉の中の「父の栄光を帯びて」に注目してください。弟子たちは、今回の受難預言の言葉を聞いた時、この「父の栄光を帯びて」という言葉を思い出したのです。それでヤコブとヨハネは37節でイエス様にこのように頼んだのです。「あなたの『栄光の座』で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

しかしこのヤコブとヨハネの申し出は、イエス様から即座に拒否されました。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯(すなわち嘲られ、つばきを掛けられ、むち打たれる受難の杯)を飲み、わたしの受けようとするバプテスマ(すなわち十字架の死の洗礼)を受けることができますか。」しかしヤコブとヨハネは、「できます」と返事しました。イエス様もそれを認めました。確かに使徒ヤコブは紀元44年にヘロデ・アグリッパ王によって殺され、十二使徒の中で、最初の殉教者となりました。しかし使徒ヨハネは殉教者とはならず、晩年をエペソで過ごし、天寿を全うしたようです。

 

弟子のヤコブとヨハネが求めた、そのイエス様の栄光の座の左右には一体誰が座るのでしょうか。イエス様は、ご自分の右と左の座に座る人を指名するのは、イエス様ではなく、父なる神様であると言われます。でもイエス様はその栄光の座に指名される方法を、十二弟子たちに教えられました。イエス様って優しいですね。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、皆の僕(しもべ)になりなさい。」このイエス様の教えは一体何を意味しているのでしょうか。人間の行為はその人の心の表れであるということを考えると、「仕える者になる」とは、「謙遜な心を持つ人」になることであり、また「僕になる」とは「従順な心を持つ人」になることであると言えます。謙遜な心、従順な心を持つ人は、何時も、誰に対しても、分け隔てなく仕えることができ、従うことができるからです。

この謙遜な心を持つ人も従順な心を持つ人も、神様によって自我が砕かれ、罪赦(ゆる)され、イエス様を救い主と信じる信仰を持ち、イエス様から離れられなくなっている人の姿です。ヨハネの福音書15章で示されている、ブドウの木であるイエス様に枝としてしっかりと留まっている人の姿です。その人に聖霊様が宿っている姿です。この様にイエス様を信じ、聖霊様の宿っている謙遜な心を持つ人がイエス様の右側に座り、同じく従順な心を持つ人がイエス様の左側に座ることでしょう。でも嬉しいことに、これはただ一人だけと限定されているのではありません。イエス様は40節で「それに備えられた人々があるのです。」と述べておられます。「人々」とは複数形です。数に制限はありません。イエス様を信じて謙遜な心を持つ人、イエス様を信じて従順な心を持つ人なら、誰でも座らせて頂けるということです。嬉しいではありませんか。

 

なぜイエス様を信じて謙遜な心を持つ人、イエス様を信じて従順な心を持つ人なら、誰でもイエス様の右と左に座らせて頂けるのか、というその理由が45節に書いてあります。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖(あがな)いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」私たちは謙遜な心をもって人に仕えることはできますが、いくら従順な心もってしても自分の命を与えることはできません。しかし、ルカの福音書10章30節から37節に記されている、イエス様が示された譬(たと)えのように、「善きサマリヤ人」となることはできます。

ある人が、エルサレムからエリコに下る道で、強盗どもに襲われ、着物をはがされ、半殺しに遭いました。そこに祭司が通りがかり、反対側を通り過ぎて行きました。同じようにレビ人も反対側を通り過ぎて行きました。ところがあるサマリヤ人が、旅の途中その場所を通りがかり、かわいそうに思い、介抱してあげ、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、次の日2デナリ、現在でいえば約2万円を宿屋の主人に渡し、介抱を頼み、もしもっと費用がかかったら、自分が帰りに払う、と約束したのです。この様な善きサマリヤ人となること、つまり、自分の隣人が必要としているなら、自分の時間も費用も差し出す人、これがイエス様の求められておられる「謙遜な心を持つ人」であり、「従順な心持つ人」の姿と言えます。これが本当のクリスチャンであり、イエス様が栄光の座に就かれる時、その右あるいは左に座ることが許される人ではないでしょうか。

 

四旬節第五主日の本日、イエス様は私たちに、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で、人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」と言われ、謙遜な心を持つ人、従順な心を持つ人になりなさいと示されました。別に、偉くなろう、人の先に立ちたい、と思わなくとも、謙遜な心と従順な心は、クリスチャンとして基本的に求められている姿です。

先程も述べましたが、このように謙遜な心や従順な心を持つ人が自分を必要とする隣人のために自分の時間と費用と骨折りを厭わない善きサマリヤ人の姿なのです。そのような人が、イエス様の栄光の座で、その右と左に座ることを許される人となるのです。わたしたちに謙遜な心や従順な心を与え、わたしたちをその栄光の座の、右と左に座らせるために、イエス様は多くの人の贖いの代価としてご自分の命を与えてくださいました。イエス・キリストを信じ、謙遜な心や従順な心を授けていただきましょう。


 人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。

©2018 Rev. Manabu Wakabayashi