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過去の説教 聖書箇所
2018年2月11日(日) マルコの福音書 9章2-9節

2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。


3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。


4 また、エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエスと語り合っていた。


5 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」


6 実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。


7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。


8 彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。

9 さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。



(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2018年2月11日(日)  わたしたちの主の変容


弟子たちの目の前で御姿が変わった     マルコの福音書 9章2-9節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

先週の金曜日に韓国のピョンチャンで冬季オリンピックの開会式が開かれました。わたしは説教の準備でテレビの前に座り続けることができなかったのですが、多くの観衆が会場を埋め尽くしている様子を見てホッといたしました。日本のテレビの事前報道で、気温-15度の会場で観る人は多くないのではないかと言われていましたが、開会式当日は-5度だったそうで、大勢の人が入っている様子を見て安心しました。各国の選手団を先導する女性たちの白い衣装は、天から降りてきた雪の精のようで、とてもかわいらしく、好印象を持ちました。そのような選手団入場行進の前に、韓国国旗の入場がありました。韓国の有名アスリートの人達によって運ばれて来た韓国の国旗が、途中で韓国時代劇に登場するきらびやかな衣装をまとった近衛兵たちに引き継がれる場面は、とても印象的でした。一挙に何百年も昔に引き戻されたような感じがして、その姿にバチカンを守るスイス衛兵の姿がダブりました。しかし本日の説教箇所は、昔の姿に戻るのではなくて、未来の私たちの姿を見る場面です。


 


本日の聖書箇所に先立つこと六日前にイエス様は、弟子たちをピリポ・カイザリヤに連れて行かれました。ピリポ・カイザリヤでイエス様は弟子たちに、「あなた方はわたしを誰だと言いますか」と問われ、ペテロが弟子たちを代表して答えています。「あなたは、キリストです。」


このことがあってから六日後のことです。イエス様はペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いていかれました。しかし他の9人の弟子たちは山のふもとに残されました。どうしてこの3人だけが選ばれたのでしょうか。この3人に共通する特徴が一つあります。それは、この3人だけがイエス様からあだ名をつけてもらった人たちであるということです。「ペテロ」というのはあだ名で、本名はシモンでした。ヤコブとヨハネは「雷の子」という意味のあだ名、「ボアネルゲ」とつけられました。(マルコの福音書3章16、17節)他の9人はあだ名がありません。それだけに、この3人に対するイエス様の親近感や信頼感は強かったと思われます。この三人が選ばれたのは、後に証人として働くためでした。ユダヤの国では事件の真偽を定めるのに証人は一人ではだめで、二人または三人が必要とされていたからです。(申命記19章15節)


ところで、弟子たちはイエス様を先頭に歩いて高い山に登って行ったのでしょうか。どうもそうではないようです。この「導いて行かれた」と翻訳されている聖書原文のギリシャ語には、「運び上げる」とか「連れて上がる」とか「担う」とか「背負う」とかという意味があります。このギリシャ語の意味から、私は、イエス様が富士山で働く強力のように弟子たちを「担いで」登って行ったか、あるいは頂上まで届くエスカレーターのようなものに乗せて「連れて上がった」のか、それともあっという間に頂上まで「運び上げた」のではないかと思い描くのです。ピリポ・カイザリヤで弟子たちが、イエス様は「生ける神の御子キリスト」であると信仰告白した六日後のことですから、そのキリストの力、奇跡を実感させてもらっても不思議ではありません。


 


さて山の上で、弟子たちの目の前でイエス様の御姿が変わりました。この「変わりました。」と翻訳されているギリシャ語は受動態で、意味は「変態させられた」です。さなぎが蝶になるように、オタマジャクシがカエルになるように、イエス様の姿が変態させられたと書いてあるのです。しかし弟子たちはイエス様の姿を認めることができたので、見た目の形態が変わったのではなく、この世の姿から天国の姿に質的に変えられたと受け取るべきと思われます。変えてくださったのは父なる神様以外にはあり得ないでしょう。どのように変えてくださったのかというと、「御衣は非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。」のです。この世のものではないという白さです。マタイの福音書ではイエス様の御顔も太陽のように輝いたと書いてあります。


そして「エリヤが、モーセとともに現れ、彼らはイエス様と語り合っていた。」のです。弟子たちはイエス様から、この二人を紹介していただいたわけではありませんし、モーセとエリヤが名札を付けていたわけでもありません。モーセは弟子達よりも1500年前の人であり、エリヤは850年前の人です。名前は知っていますが、会ったことはありません。それなのになぜ弟子たちはモーセとエリヤだと分かったのでしょうか。神の国においては、直感的にわかるのです。神様がそうさせてくださるからです。これは私も含め、「その、あの」という言葉を連発してしまう、年齢とともに記憶力が低下していく方々にとって朗報です。天の御国に入れば、何事も解決してしまうのです。


ところで、このイエス様の御姿が変わることと、モーセとエリヤが現れたこととは、いったい何を意味するのでしょうか。まずイエス様の衣が「非常に白く光り、この世の晒屋ではとてもできないほどの白さであった。」ということは、天の御国の衣は白い衣であり、わたしたちもイエス様を救い主として信じて悔い改めるとき、罪赦(ゆる)されて白い義の衣を着せられるということを表します。ヨハネの黙示録7章9節にはこのような御言葉があります。「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大勢の群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。」


次に、モーセとエリヤが現れたことは、弟子たちにイエス様の受難と復活を確信させるためでした。というのは、弟子たちがイエス様を「あなたは、キリストです。」(マルコの福音書8章29節)と信仰告白したとはいえ、政治の面においても依然としてイエス様にユダヤ解放の夢を託していたからです。この頭では分かっていても心で分からない弟子たちに、どうしたらご自分の受難と復活が、旧約聖書と完全に一致していることが分かってもらえるか、が課題でした。それで旧約聖書の律法を表すモーセと、預言者の書を表すエリヤが、イエス様と話し合っていたのです。その話の内容は、ルカの福音書9章31節に書いてあります。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」つまりイエス様が苦しみを受けて十字架にかかることは旧約聖書ですでに預言されていたことであると弟子たちに悟らせたのです。詩篇22篇やイザヤ書53章にそのことが預言されています。


 


 「するとペテロが口出ししてイエスに言った。」とあります。ギリシャ語では「そしてペテロは答えてイエスに言った。」と書いてあります。「口出し」ではなく「答えた」のです。ペテロはイエス様から何も問われてはいません。しかし「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。」というペテロの言葉から、ペテロはイエス様から「どうだ、素晴らしいだろう」と言われたような気がしたのでしょう。それで答えたと思われます。そしてこの素晴らしい光景をずっと留めておくために「幕屋を三つ造らせてください。」と願ったのです。ペテロは自分で何を答えているのかわからなかったと書いてあります。弟子たち3人が恐怖に打たれた思いをしたほど、その光景は素晴らしかったということが分かります。


 そして「そのとき雲がわき起こってその人々を覆い、雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい』という声がし」ました。この声は父なる神様の御声です。父なる神様は弟子たちに、イエス様のどの言葉を受け入れなさいと命じられたのでしょうか。それはモーセとエリヤがイエス様と話し合っていた内容から推測するに、イエス様の言われた受難預言の事であろうと思われます。つまり、マルコの福音書8章31節の御言葉です。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない。」この御言葉は、イエス様がわたしたちの罪の身代わりとなって十字架にかかられるけれども、三日の後に復活される神様であることを表しています。ですからこの神様であるイエス様を悔い改めて受け入れた人は、イエス様と一緒に死んだとみなされ、罪が赦され、神様の子供とされるということです。このように、イエス様の言われることをそのまま額面通りに受け入れるということは、素晴らしい結果となることが分かります。


 


 この父なる神様の御声に、「彼らが急いであたりを見回すと、自分たちと一緒にいるのはイエスだけで、そこにはもはや誰も見えなかった。」のです。3人の弟子たちがあたりを見回した時、そこにはイエス様の他に誰もいなかったということは、それまで、自分達と一緒にモーセとエリヤが立っていたことを意味しています。3人が見たものは、映画のような幻ではなく、実際にそこに存在した光り輝く衣に包まれた人々だったのです。ですからペテロは実際手の届くところにおられるイエス様とモーセとエリヤのために三つの幕屋を造らせてくださいと頼んだのだということがわかります。


 しかし、この素晴らしい交わり体験をイエス様は3人の弟子たちに口止めされました。他の9人の弟子たちに対しても話してはならないと言われたのです。実際に見た事と、人から聞いた事では受け取り方が全く異なるからです。聞いた弟子たちが救い主キリストに、誤った期待を持ちかねないからです。ましてや一般の人々に、イエス様が救い主キリストであると知れ渡ると、イエス様が政治的に利用されて、十字架への道が邪魔されかねないからです。ですからイエス様はその口留めの期限を「人の子が死人の中からよみがえる時までは」と言われました。


 


このように、イエス様の御姿が変えられる出来事は、信仰者の未来をわたしたちに保証してくれます。信仰者は天の御国に入ったら、この世の晒屋ではとてもできないほどの、非常に白く光る衣を着せられる者に変態するということです。そして神様の子供とされ、イエス様と共に天の御国の共同相続人となるのです。ですから、わたしたち全ての人はこの世において、まず悔い改めて神様であるイエス様を受け入れましょう。そして父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けるのです。そうするとイエス様を受け入れた人は、イエス様と一緒に十字架上で死んだ人とみなされ、罪が赦されます。それは私たちが新しい命を持つ新しい人として歩むためです。その人はこの世にあって既に神様の子供とされ、天の御国の住民とされます。その人は全ての災いから守られるだけでなく、あらゆる祝福に満たされます。但しその人がイエス様の言うことに従っていればの話です。この世にあって私たちには誘惑が多く、何時もイエス様の御言葉に留まっていることができない時があります。そのような時、罪を犯したら、悔い改めましょう。そして祈り、神様に導かれつつ歩むのです。私たちの一生は悔い改めであるとマルティン・ルター博士は教えてくれました。日々悔い改めましょう。そうすれば私たちは天の御国から落ちることはありません。



 人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。

©2018 Rev. Manabu Wakabayashi