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過去の説教 聖書箇所
2017年12月31日(日) ヨハネの福音書 1章1-5、9-14節

1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

2 この方は、初めに神とともにおられた。

3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 

9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

14 ことばは人となって、わたしたちの間に住まわれた。わたしたちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。


(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2017年12月31日  降誕後主日


恵みとまことに満ちた方     ヨハネの福音書 1章1-5、9-14節


牧師 若林學      


 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

今年前半は、NHKの朝ドラ「ひょっこ」にはまっておりました。と言うのはそのテーマソングがとても気に入ったからです。シンガーソングライター桑田佳祐さんが歌う「若い広場」が大好きで、その歌を何度も口ずさんでいました。その歌詞の一つに「あの日観てた、サンドオブミュージック、瞼閉じれば蘇る」に共感しておりました。確かに瞼閉じればあのシーンの数々が蘇るのです。

わたしが高校生の時でした。その映画Sound of Musicが新潟の映画館で上映されました。わたしはたちまちその映画に魅せられて、数回映画館に足を運んでしまいました。お金を払「thing Good」「何か良いこと」と言う歌が出てくるのです。主人公の家庭教師マリヤとオーストリアの海軍大佐トラップが恋に落ち、月の光の中、中庭のホールのようなところで歌う歌なのです。その歌の一節が非常に印象深いので、今でも覚えています。それは「Nothing comes from nothing. Nothing ever could.」と言う言葉です。翻訳すると、「無からは何も出て来ない。無から有は造れない。」という意味です。

確かに人間にとって、無から有を造ることはできません。わたしだって今までこの礼拝堂のリフォームをやってきましたが、何をするにもまず材料がなくては始まりませんでした。次に必要なのは道具でした。出来、不出来はありますが、人間にとって材料がなくては何もできないのです。衣服を造るにも、料理をするにも、家を建てるにも、紙幣を印刷するにも、何をするにもまず材料がなければ始まらないのです。

しかし神様は材料がなくとも始めることができます。神様は無から有を造る方です。創世記の第1章第1節を見ますと、そのことが良く分かります。神様はまず材料を造っておられます。創世記第1章第1節「初めに、神が天と地を創造した。」神様はまさに無の中に、この世という天と地を創られました。この天と地の中にすべての材料を用意されたのです。ところで神様は天と地をどのようにして創造されたのでしょうか。創世記第1章には、神様が「天と地があれ。」と言われたとは書いてありません。どのようにして造られたのか知りたいところです。そこで考えてみました。本日の聖書箇所であるヨハネの福音書第1章1節の「初めに、ことばがあった。」という記述と、3節の「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」という二つの記述から、天と地も言葉によって造られたことは確かです。材料である天と地も「全てのもの」の中に含まれるからです。ですから「初めに神は仰せられた。『天と地があれ。』すると天と地があった。」となります。まさに神様は、無から有を呼び出したのです。

次に神様はその材料に向かってただ「あれ」と言われました。そうして出て来たのが光、大空、植物、天体、水中生物、鳥類、そして地上動物です。

神様は人間以外を言葉だけで創造されました。もちろん神様の頭の中にはイメージがあったことは確かです。神様は最初からこの世をこの様にしたいと考えて全ての物を造られました。ですから神様の頭の中にはこれから造ろうとする全ての生物の姿と構造と機能が見えていました。人間的に言えば、設計図に相当するイメージがありました。そのイメージは外観だけでなく、内部の構造、機能、作用が全て相互に働くように、どんなに小さな部分であっても神様の頭の中にはきちんとイメージされて用意されていました。

現代のわたしたちは光学顕微鏡ではとても見えないので、電子顕微鏡を用いて細部の構造を見ていますが、探れば探るほど驚きの世界が出てきます。良く人体は小宇宙であると言いますが、宇宙が良く分からないのと同じように、人体のことも良く分かってはおりません。それくらい複雑な物を神様は造られたということです。

このことはわたしたち人間にも言えます。神様はお創りなった全てのものを、どんな小さなものに至るまで目を注いでおられる、ということは確かです。決して十把一絡げに扱ってはおられません。そんなことをしたら、十把の内の一つか二つには神様の目が届いていないわけですから、弱り果てて神様の知らぬまま死んでゆくことになります。そのようなことはあり得ないのです。草だってそうです。一本一本神様は覚えておられるのです。イエス様はマタイの福音書10章29節と30節でこのように言われました。「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。」

今年のクリスマスにも山形県米沢市にある米沢興譲教会の田中信生先生からクリスマスカードを戴きました。例年は奥様と御一緒の写真入りのクリスマスカードでした。しかし今年は「クリスマスに聞いてもらいたい本当にあった話」、というトラクトが入っていました。トラクトというのは、勧誘のために用いる小冊子です。そのトラクトの中に「ある男性が見つけた真理」というものが書いてありました。このある男性とは、事業に失敗して夜逃げをし、その借金を保証人に全額負わせた人です。借金を負わされた保証人の人は死ぬ前にその男を探し出して会い、その男に一言このように言ったそうです。「ゆるしているから。」この保証人の赦(ゆる)しの言葉に、借金を負わせたその男性は自責の念に駆られ、自殺をも考えたそうです。しかし、ある牧師に会い、その牧師の言葉によって、聖書が語っている真理に目が開かれたというのです。著者の了解を取っていないので、その真理の一部をご紹介します。

「人間は勝手に生まれて来たのではない。神様に創られた神様の作品である。(中略)そのままの、何もできない姿であっても、あなたの存在の尊さは変わらない。」

この最後の言葉、「そのままの、何もできない姿であっても、あなたの存在の尊さは変わらない。」この言葉にわたしは心打たれました。人間がどんな病気に犯されようが、ベッドから自力で起き上がれない体になろうが、喜怒哀楽を表せなくなろうが、その人の存在の尊さは変わらないのだ、と聖書は伝えているというのです。わたしも確かにそう思います。なぜなら、尊厳に満ちた神様が人間を造られたからです。人間は尊厳そのものである神様の最高傑作なのです。だから人間がどのような状態になったとしても、尊厳である神様がそのようにされておられるから、人間の尊厳は変わらないのです。

さて、本日の聖書箇所の1章1節に「言葉は神であった。」とあります。なぜ神様は言葉なのでしょうか。創世記1章27節を見ますと、神様がご自分の形に似せて人間を造っておられます。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」ですから神様も姿、形を持っておられることは確かです。それなのになぜ福音記者ヨハネは「言葉は神であった。」と、あたかも姿、形が無いように言っているのでしょうか。それは神様が人間のように手で物を造られるお方ではなく、言葉で造られるお方であるから、ということになります。ちょうど司会者が次に登場する人に向かって「次の方どうぞお入りください。」と、言葉で言うのと同じです。ただ天や地に聞く耳があるかどうか分かりません。神様が「光があれ。」と言われたら、光はこの世に存在することになるのです。ですから、神様は無から有を呼び出すお方であるということになります。すごいお方ですね。

ただ、言葉であるイエス様が無から有を呼び出して、父なる神様がせっせと作っておられる、という姿ではありません。言葉であるイエス様が無から有を呼び出し、言葉で全ての物を造っておられるのです。それでは父なる神様は何をなさっておられるのかと言いますと、言葉であられるイエス様と一緒になって無から有を呼び出し、一緒になって造っておられるということになります。このヨハネの福音書には書いてありませんが、聖霊様も一緒になって無から有を呼び出し、一緒になって造っておられるのです。三位一体の神様は、創造の業についてはご一緒になって当たられておられるのです。しかし人間の救いにおいては、それぞれが分かれて働かれます。父なる神様はこの世を保つと同時に御子イエス様をこの世に送られます。この世に送られたイエス様は人々にご自分を信じるように教え、人間の救いのために十字架にかかり、古今東西の全ての人の罪の贖(あがな)いをします。父なる神様は、聖霊様もこの世に送られます。聖霊様は人々に働いて、聖書の御言葉を通して人々が罪を自覚し、イエス様の罪の贖いの死を信じるように導きます。

4節には「この方に命があった。」とあります。イエス様にある命とは、霊的な命です。決して肉的な命ではありません。神様は霊ですから、霊的な命を持っておられることは確かです。イエス様はヨハネの福音書14章6節で言われました。「わたしが道であり、真理であり、命なのです。」イエス様を信じることによって、この霊的な命を与えていただくことができます。このことがキリスト教の本質です。わたしたちが、己の罪を悔い改めて、イエス様を救い主と信じるとき、イエス様も「わたしもあなたに罪を認めない。」と言われ、わたしたちを永遠の滅びから救ってくださいます。そしてこの瞬間、わたしたちに永遠の命が与えられるのです。

4節にはまた「この命は人の光であった。」とあります。この言葉を素直に読んで見ると、「この命=人の光」、と書いてあるのに気が付きます。つまり命であるイエス様は人の光であり、人の光は命であるイエス様です。人の光とは、人の心の内側を照らして罪を示し、悔い改めに導き、永遠の命を与える光です。しがってイエス様は、道であり、真理であり、命であり、そして永遠の命を与える人の光なのです。したがって永遠の命を持つ者はまた永遠の光をも持つことになります。ですから、光であるイエス様が罪で覆われた闇の中に輝いておられるように、罪赦された人もまた、罪の闇の中で輝くことができるのです。罪という闇がもうその人の内に無いからです。また罪赦された人がイエス・キリストを否定しない限り、罪の闇に引き戻されて、闇に覆われることはありません。

以上の説明から、9節から13節までの御言葉が理解されます。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」この御言葉は、このような意味となります。「全ての人の心の内を照らして、罪を示し、悔い改めに導き、罪の赦しを与える霊的な光がこの世に来ようとしていた。この霊的な光であるイエス様は、かつてアブラハムに現れ、モーセに現れた方で、さらに遡ればこの世を創られたお方なのにこの世の人々はこの方を信じようとしなかった。この方はご自分の国イスラエルに来られたのに、ご自分の民であるイスラエルの民でさえも、ご自分を信じなかった。このように、この世もイスラエルの民も、国民全体としてはこの方を信じなかったけれど、個々には信じた人がいた。特に、パリサイ人から罪人とレッテルを貼られている多くの民衆がこの方を信じた。父なる神様は我が子イエス様を救い主として信じた人々に、神の子供とされる権利、すなわち救いの喜び、永遠の命、永遠の光を与えられた。だからこの人々は民族だからとか、家族だからとか、個人の熱意とか、といった人間的な力で生まれたのではなく、まさしく神様の力で生まれた霊的な人々なのである。」

そして最後の14節はクリスマスです。「ことばは人となって、わたしたちの間に住まわれた。わたしたちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」これはこのような意味です。「神の御子イエス・キリストは処女マリヤから生まれ、人となってイスラエルの人々の間に住まわれた。イスラエルの人々は病の癒しを求めてこの方のところに吸い寄せられ、この方の言葉の光に照らされて、悔い改め、さらに病も奇跡的に癒され、この方がまことの神様であることを知ったのです。イスラエルの人々は罪の赦しと、病の癒しを通して感謝に溢れ、御子イエス様の中に父なる神様の御許から来られた一人子としての栄光を見ました。このお方が全ての人を包み込む赦しの恵みと救いの真理に満ちていたからです。」恵みとは罪の赦しであり、真理とは、「主は救い」という意味のイエスのお名前が示す通り、滅びからの全き救いであります。

このクリスマス、わたしたちが礼拝するイエス・キリストは、無から有を呼び出すお方です。このお方によってこの世は造られました。即ちわたしたちが造られました。無から有を呼び出すお方によって造られたという意味で、わたしたち一人一人はかけがえのない存在であり、神様の目には尊い存在です。ですから父なる神様はこの尊い存在であるわたしたちを滅びから救い、永遠の命を与えるために、命の君、御子イエス様をこの世に送ってくださいました。そしてこのお方を信じれば罪が赦され、永遠の滅びから確実に救われ、神の子供とされる道を開いてくださいました。あとは私たちがこのクリスマスにお生まれになった御子イエス・キリストを悔い改めて信じるだけです。このイエス様は全ての人を包み込む「赦しの恵みと救いの真理」に満ちています。ですから安心してこのお方、救い主イエス・キリストを信じ、身を任せ、救っていだだきましょう。

また、わたしたちがこの恵みとまことに満ちたお方イエス様を礼拝する時、わたしたちは日々罪の赦しと救いの喜びに満たされます。この喜びの生活がわたしたちを全ての災害から守ってくれます。全能の神であられる主イエス様が共におられるからです。来る年も祝福に満ちた毎日を送らせていただきましょう。


 人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。

©2017 Rev. Manabu Wakabayashi