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過去の説教 聖書箇所

2017年10月29日(日) ヨハネの福音書 8章31-36節


31  そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがた
  が、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟
  子です。

31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。

32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」

33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」

34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。

35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでも
  います。

36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとう
  に自由なのです。

(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2017年10月29日  宗教改革主日


真理はあなた方を自由にする
      ヨハネの福音書8章31-36節

牧師 若林學      

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

わたしのことで恐縮ですが、わたしがイエス様にお会いしたいきさつを紹介させていただきます。わたしがキリスト教に初めて出会ったのは、高校1年生になった6月に、ギデオン協会から新約聖書をいただいた時でした。その聖書は日本語と英語の両国語で書かれていて、日本語は口語訳聖書、英語は古い英語で書かれた米国標準訳聖書でした。わたしはそもそも英語に対する興味が薄く、その上、頂いた聖書の英語には「産んだ」という意味のbegatとか、「あなた」という意味のthouとか、未来形助詞shaltという見たこともない古い英単語が出てきており、それらが中学生時代に買った英語辞典には載っていず、たちまち興味を失い、英語聖書の最初の1頁目であえなく沈没してしまいました。一方、日本語聖書はどうかというと、聖書の中身が全く分からず、興味が湧きませんでした。キリスト教とはこんな悲惨な出会いでしたが、聖書をいただいたということはずっと忘れることがありませんでした。

仙台の大学に入った時、勉学のかたわら、混声合唱団に入部しました。入った動機は単純で、話し合える女性の友達が欲しかったからです。しかしすぐに合唱する魅力にはまってしまいました。男性同士でドの音とソの音を出すと、誰も歌っていないのに、高いほうのドとミの音がはっきりと聞こえるのです。このドとミは倍音と言います。この倍音を聞く事は私にとって、何とも言えない快感でした。この快感にとりつかれ、合唱の虜になってしまいました。

そして大学2年生になった時、部室に備え付けの合唱辞典を見ていたら、宗教音楽には精神的な世界があると書かれていました。その著者は濱田徳昭(はまだのりてる)という指揮者でした。この精神的な世界に興味を惹かれ、その著者のことを合唱団の仲間に話すと、その人なら今仙台に来ているというので、早速会いに行きました。その濱田先生に、この精神的な世界を経験したいとお願いしたら、それではということで、モーツァルト作曲のレクィエムを上演しようということになりました。これがキリスト教との再会となり、宗教音楽を通してキリスト教の精神的世界を経験したのです。

大学を卒業して3年後、赴任先が愛知県の豊川から神奈川県の横浜に変わり、友達に誘われて会社に近いルーテル教会の礼拝に出席し、30歳で受洗しました。そして40歳の時、姦淫の罪を悔い改め、イエス様から直接罪を赦(ゆる)していただき、イエス様がおられる霊的世界が存在することを知ったのです。

宗教改革記念日の今日、本日与えられた聖書箇所は、この霊的世界の存在を教えておりますので、どのようにしたら、この霊的世界を知ることができるのかを聞いていきたいと思います。

その霊的世界を知る方法とは、31節に書いてある通り、イエス様の御言葉(みことば)を信じ、そのイエス様の言葉に留まることです。イエス様がこのように言っておられるからです。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」ヨハネの福音書4章24節に「神は霊です。」と書かれています。そして同じくヨハネの福音書1章1節に「ことばは神であった。」と書いてあります。ですから、神なるイエス様の御言葉に留まる時、その人は霊の世界を知ることができるということが分かります。そしてその人が本当のご自分の弟子だとイエス様は言われます。それではイエス様の言葉を信じただけの人はイエス様の弟子ではないのでしょうか。その人は一時的な弟子かもしれませんが、本当の弟子ではありません。その人はきっと、風に吹き流される浮草のように、神社に行けば神頼みをし、お寺に行けば仏頼みをし、教会に行けばキリスト頼みをする、八百万の神を信じる人でしょう。ですから「信じる」というのは、例えて言えば、注文取りやセールスマンが、ある人の家を訪問して、玄関先で話をして、用件が済めば帰ってしまうようなものです。

これに対して「信じて留まる」とはどういう状態かと言いますと、玄関先だけでなく、家の中に迎い入れてもらい、その家の中に自分の場所を与えられ、その人と一緒に住むことを意味しています。例えて言えば、居候とか食客のようなものです。

またまた、わたしの例で恐縮ですが、私ども家族がアメリカから日本に帰ってきた時、人に貸してある横浜の自分の家に住むのか、それとも家財道具が置いてある新潟に住むのか、迷いました。そうしたら家内が、「全家財が置いてある新潟に住むのが正解でしょう。」と提案したので、そういたしました。私共の家財は両親の持っていた、誰も住んでいない古いアパートの二部屋に置いてもらっていました。それで、帰国当初は、とりあえず両親の家に厄介になり、古いアパートに行って、住めるように掃除をしたり、障子を張ったりと、準備していました。準備の間、両親と一緒に住んでみると、両親のいろいろな問題が見えてきました。当時父は90歳代、母は80歳代でした。まず父がよく転ぶことが分かり、家じゅうに手すりを付ける必要に迫られました。次に老齢の母は調理をあまりしておらず、両親の栄養が取れていないことが分かりました。それで、アパートではなく、両親の家に私たち家族が一緒に住むことにして、わたしが大工仕事をしたり、お風呂に入れてあげたり、妻が毎食、調理するようにしました。私たちが同居して両親の世話をするようになってから、当然のことながら、両親の栄養状態はみるみる改善され、元気になっていったのです。

この私たちの例と同じで、イエス様の御言葉を信じて、その御言葉に留まるとは、イエス様の御言葉の中に住むことを意味します。すなわちこの聖書全体をイエス様の御言葉と信じて受け入れ、毎日ご飯を頂くように、聖書を読むことを意味しています。そうすると私たちが両親の面倒を見たのとは反対に、イエス様が私たちの面倒を見てくださるのです。すなわち、私たちの何が問題で、何を私たちに施せば私たちが神様の子供として元気になるか、イエス様が面倒を見てくださると言われるのです。まさにイエス様の宣教活動の3年間、12弟子を初め多くの男性や女性の弟子たちがイエス様と生活を日夜共にし、イエス様の御言葉を聞き、イエス様の奇跡を目の当たりにし、イエス様の全てを吸収しながら、イエス様に従っていった通りです。

32節でイエス様はその留まる効果を具体的に言われます。「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」真理とは何でしょうか。真理とはイエス・キリストです。ヨハネの福音書14章6節でイエス様ご自身が宣言しておられます。「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」イエス様の他にも、聖霊様も真理です。ヨハネ15章26節「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」、そしてもう一人真理の方がおられます。ヨハネ17章17節には「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」とあるように、父なる神様の御言葉も真理です。でもここでは、本日の聖書箇所32節の言葉「真理はあなたがたを自由にします。」と36節の言葉「もし子があなたがたを自由にするなら」とを突き合わせると、真理とは、神の御子イエス・キリストであることが分かります。イエス様に留まる時、つまり聖書の言葉に留まる時、私たちは初めて、イエス様が真理であることが分かるのです。それだけでなく、その神の子救い主が、ご自分を信じてご自分の御言葉の中に留まる人の罪を赦して滅びの運命から救い、自由にして下さるわけですから、これほど確かな自由はありません。

しかしこの御言葉を聞いていたユダヤ人全部が、イエス様の御言葉を信じたわけではありません。多くのユダヤ人は信じましたが、信じないユダヤ人もいました。この信じないユダヤ人がイエス様に言った言葉が33節です。なぜ信じないユダヤ人だったとわかるのかと言いますと、彼らの言い方に問題があったからです。日本語では「彼らはイエスに答えた。」と書いてありますが、原文のギリシャ語を見ますと、福音記者のヨハネは、このように書いています。「彼らはイエスに逆らって答えた。」あるいは「彼らはイエスに口答えした。」と書いてあるのです。

そしてこの口答えしたユダヤ人の言っている言葉そのものもおかしいですね。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。」本当ですかね。イスラエル人は400年間エジプトで奴隷生活を送っていたと使徒の働き7章6節にはあります。また70年間バビロンに捕囚となっていました(エレミヤ書25章11節)。そして今このユダヤ人がイエス様に口答えしている時、彼らはローマの支配下、それも外国人ヘロデ王の支配下にあるのです。まさに歴史認識、現状認識がおかしいと言わざるを得ません。

しかしイエス様はそんな歴史論争には加わらず、全く思いもよらない世界、霊的な世界を示されました。34節でイエス様はまず「まことに、まことに」と2回同じ言葉を繰り返しておられます。神様が2回同じ言葉を繰り返されるときは、そのことが誰もくつがえすことのできない真実であることを意味します。イエス様は言われました。「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」私たちが「罪を犯す」と言うと、法律に違反する行為をした場合だけを言いますが、イエス様は行為で犯すことだけでなく、言葉で犯すことも、心の中で犯すことも「罪を行っている者」であると言われました。心で思っていることが言葉や行為となって出てくるからです。偶像を礼拝する者や無神論者は律法の第一戒である不信仰の罪を犯しているのであり、心に怒りを感じる者は律法の第五戒である殺人の罪を犯しているのであり、心に情欲を持つ者は律法の第六戒の姦淫の罪を犯しているのであり、そして神様と隣人を愛さない人は律法全体を犯しているのです。

ですから罪を行わない者は誰もいません。全ての人が罪を行っているのです。全ての人は罪の奴隷なのです。政治的、肉体的奴隷ではなく、霊的奴隷なのです。

それゆえイエス様は35節で、「奴隷はいつまでも家にいるのではありません。」と言われました。この家とはこの世です。罪の奴隷は裁きを受け、この世から地獄へと去っていきます。いつまでも家にいるわけではないとは、そういう意味です。地獄に閉じ込められるという意味です。

しかし、その罪が赦されるならば、私たちの状況は一変します。またイエス様は言われました。「しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」

イエス様は、 初めであり終わりである方ですから、この世の初めから、この世の終わりまでおられるお方です。何のためにおられるのかというと、私たち人間を罪の滅びから救うためです。イエス様は私たちを救うために来られたお方であるからです。イエスというお名前は「主は救い」という意味です。イエス様は私たち人間を救うため、その全ての罪の身代わりとして十字架にかかるために、この世に来られました。ですからもし私たちが、その救い主イエス様に、悔い改め、罪の赦しを求めるならば、イエス様は喜んで私たちの罪を赦し、天の御国に入る者としてくださいます。ですから、罪の牢獄から救い出され私たちは、本当に自由なのです。

 

今から500年前の10月31日に、ドイツの一地方都市の一司祭であるマルティン・ルター博士が免罪符の効力を明らかにするための討論会の開催を呼びかけ、「95箇条の提題」を城教会の入り口の扉に貼り付けました。その第一条にはこのように書いてありました。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ…』(マタイの福音書4章17節)と言われた時、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」

この第一提題は、罪の赦しに免罪符は全く効力が無く、効力があるのは悔い改め、それも全生涯にわたる悔い改めである、と主張していました。全生涯にわたる悔い改めとは、イエス様を信じ、毎日悔い改め、毎日イエス様の罪の赦しの言葉に留まることです。これが霊的世界を知る方法であり、この世にあって霊的世界、即ち天の御国に身を置くことになります。その人は何時もイエス様から祝福を受け、守られる人となります。

ですから、毎晩眠る前に、ルター博士が教えているように祈りましょう。小教理問答書の最後の第三篇「どのように祈りを教えるか」の中の「夕べの祈り」に書いてあります。「父と子と聖霊の御名によって。アーメン。天の父よ、今日一日御恵みの内にわたしをお守りくださったことを、御子、イエス・キリストによって感謝いたします。誤って犯した私の全ての罪を赦して、この夜もわたしを恵みの内にお守りください。わたしの体と魂と一切の物をあなたの御手に、おゆだねいたします。どうか悪い敵が、わたしに力をふるうことが無いように、聖なる天使を、わたしのもとにお遣わし下さい。アーメン。」

人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。
©2017 Rev. Manabu Wakabayashi