バーナー 本文へジャンプ
 

 小針福音ルーテル教会へようこそ! 

 WELCOME to KOBARI EVANGELICAL LUTHERAN CHURCH !

過去の説教 聖書箇所

2017年10月22日(日) マタイの福音書 22章15-22節


15 そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにイエスをことばのわな
  にかけようかと相談した。

16 彼らはその弟子たちを、ヘロデ党の者たちといっしょにイエスのもとに
 やって、こう言わせた。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に
 基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あな
 たは、人の顔色を見られないからです。

17 それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めること
  は、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょう
  か。」

18 イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、わたしをた
  めすのか。

19 納め金にするお金をわたしに見せなさい。」そこで彼らは、デナリを一枚
  イエスのもとに持って来た。

20 そこで彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘です
  か。」

21 彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「そ
  れなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に
  返しなさい。」

22 彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2017年10月22日  聖霊降臨後第20主日



「神のものは神に返しなさい」
      マタイの福音書22章15-22節
                           牧師 若林學  

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。


さて、本日の聖書箇所はパリサイ人たちがイエス様を言葉の罠に掛けようとする場面です。パリサイ人と言えば律法に熱心な人々で、律法を厳格に行うことによって義を得ようとした人々です。いわゆる「行いによる義」を得ようとしていたのです。使徒パウロは回心する前、この厳格なパリサイ人中のパリサイ人でした。


しかし、そのパウロが回心前の自分の姿をテモテへの第一の手紙1章13節でこのように告白しています。「私は、以前は神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」このパウロの言葉を読んだとき、わたしはびっくりしてしました。律法に人一倍熱心だった人が、「私は神をけがす者だった」と告白しているからです。神をけがす者とは神様を冒涜する者です。神様を悪く言う人です。


パウロはクリスチャンとなった後に、若かりし自分の姿を振り返って回想しているのです。信じている今の自分から見ると、あの時は信じていなかったなあ、と回想しているのです。「信じていないときに知らないでしたことなので、」とパウロが告白している通りです。人間の努力や知識で神様を信じることができるのであったら、聖書も恵みも罪の赦(ゆる)しも悔い改めも必要ではありません。しかし神様は、聖書によって罪が示され、その罪の赦しを求める道を唯一の救いの道として備えられました。これがいわゆる「信仰によって義とされる」道です。神様は恵みによってその人の罪を赦し、ご自分が救い主イエス・キリストであることを霊的にわからせてくださり、ご自分を信じる信仰を与えてくださいました。すなわち、「イエス・キリストは、わたしの罪を赦し、滅びから救ってくださるお方である」という福音を信じなければ、まことの神様を知ることはできないのです。


そのイエス様がどなたなのかわからない不信仰のパリサイ人たちが、どのようにイエス様を亡き者にしようかと集まって相談した結果、考えついたのが「言葉の罠」でした。イエス様がマタイの福音書7章17節で「悪い木は悪い実を結びます。」とおっしゃっておられますが、まさにその通りです。使徒パウロはさらにコリント人への第二の手紙11章14節で「驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。」と言う通り、信仰心の無い宗教家は恐ろしいものであることが分かります。ですから、イエス様が言われるように、悔い改めなければ誰も天の御国に入ることができないのです(マタイの福音書4章17節)この悔い改めないパリサイ人が考えついた言葉の罠とは、支配者であるローマ帝国の法律に背くことをイエス様に言わせてローマ帝国に処刑させる策略です。言葉の罠ですから、イエス様がこの様に言ったと、証ししてくれる第三者が必要です。それがヘロデ党の者たちでした。


ヘロデ党はユダヤを治めているヘロデ王朝の支持者たちからなるユダヤ人でした。つまりユダヤ人でありながら外国人のヘロデがユダヤを治めることを望んでいたのです。なぜかというと、もしローマ帝国に直接統治されたらユダヤ人の自治は全く認められず、ユダヤはローマ帝国の属国一つに成り下がってしまいます。しかしヘロデ王が治めてくれれば、ヘロデ王が緩衝材となってユダヤ人の自治の幅が広がるので、ユダヤ人にとっては好ましかったのです。このようにヘロデ党は、ローマの支配からの独立を主張するパリサイ人とは主義主張が異なっていましたが、イエス様に敵対する一点でこの日両者は手を組みました。またヘロデ党は宗教集団ではなく、政治集団でありました。第三者であるヘロデ党も証言しているとなれば、ローマ総督に対して有利に働くと期待されました。


ヘロデ党という強い味方を得たパリサイ派の偉い人たちは、自分らの弟子たちを指導してその口に甘い挨拶の言葉を授け、ヘロデ党の者たちと一緒にイエス様のところに行かせてこのように言わせました。「先生。私たちはあなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見られないからです。」イエス様とは、まさにこのパリサイ人の弟子たちが表現した通りのお方です。でもこの甘い言葉の中に毒が隠されていることが分かります。つまり彼らはこのように言ったのです。「あなたは、わたしたちがどのような者であろうとも問題にせず、またローマ総督とか、ヘロデ王とかに遠慮せず、わたしたちの質問に率直に答えてくださるお方です。」この様にイエス様が答えを拒否したり答えをはぐらかそうとしたりすることを、あらかじめ封じたのです。


この様に逃げ道を塞いでおいてから質問しました。「それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」ここで税金と言われているのは「人頭税」というローマ帝国の租税で、帝国内に住む人民から徴収していたものです。担税能力に関係なく、一人一人に対して一律に同じ額を課する租税でした。どのくらいの金額かというと19節に書いてあります。1デナリです。労働者1日分の賃金です。日本円では約1万円でしょう。この人頭税は一人1デナリと額が決まっていますから、貧乏人には厳しくお金持ちには優しいという、逆進性が甚だしいので悪税と言われています。


パリサイ人たちが期待したイエス様の答えは、「律法にかなっている。」または「律法にかなっていない。」のいずれかのはずでした。ところがイエス様が言われたのは、パリサイ人たちが思ってもみなかった言葉でした。まずイエス様はパリサイ人たちの目を見て裁判官が判決文を読み上げるときのように言われました。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。」この言葉がイエス様の口から出るや否や、パリサイ人たちは震え上がりました。自分たちの企みが見抜かれたと分かったからです。彼らは恐れ、浮足立ってしまいました。神様であるイエス様に誰が一体勝てるというのでしょうか。パリサイ人たちはもうイエス様の手玉に取られてしまったのです。あとはイエス様の言いなりでした。


イエス様が「納め金にするお金をわたしに見せよ。」と言われると、パリサイ人たちは即座にデナリ銀貨を差し出し、「だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」と言われると、問われるままに「カイザルのです。」と答えたのです。


そこでイエスは重々しく言われました。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」すなわちイエス様はパリサイ人に向かってこのように言われました。「あなた方はこのデナリ銀貨がカイザルの貨幣であると認め、その銀貨を用いて生活しているのだから、あなた方はカイザルの臣民である。あなた方だけでなくこのローマ帝国で生活する全ての人はカイザルの臣民である。カイザルの臣民はカイザルに対する賦役や賦課の義務を果たさなければならない。故に人頭税をカイザルに払うことは当然のことである。


またあなた方は律法を持っている。その律法によると、あなた方は神の姿に似せて神によって創造されたと書いてある。つまりあなた方自身が神の肖像なのだ。神の肖像を持つあなた方は神に属し、神のものである。神のものであるならば、神に義務を果たなければならない。その義務とは、この私イエスがあなたがたに教えたように、悔い改めることであり、信仰を持つことであり、神を礼拝することであり、神に従順に従うことであり、神の導きや懲らしめに服従することである。カイザルに税を治めない者をカイザルが罰するように、神に義務を果たさない者、すなわち悔い改めない者を神が罰するのは当然のことである。」


この様にイエス様は人間には国に対する義務と神様に対する義務の両方が存在することを示されました。この両者は神様が造られたものですから、矛盾したり対立したりすることがありません。使徒パウロはローマ人への手紙13章1~7節で、クリスチャンがどのように国や教会に従うべきか教えています。まずクリスチャンは上に立つ権威に従わなくてはなりません。存在している権威は全て神様によって立てられたものだからです。そして税や貢を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬うように教えています。


パリサイ人とヘロデ党の者たちは、イエス様の回答「を聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。」と記されています。まさかこんなに見事に整理して答えを返されるとは思ってもみなかったからです。イエス様が示された方法は、人頭税という税金をカイザルに関する全ての物の中の一つと捉える方法でした。ある物事を、それが存在する全ての中に一つとして捉えるとき、相対的な物として考えることができるので、どのようにしたら良いのか、そしてどの程度に対処したら良いのか、自ずとその答えが出てくるのです。ところがパリサイ人は、人頭税という税金をそれが属さない律法の中で判断しようとしていたために混乱に陥っていたのです。


またイエス様は「神のものは神に返しなさい。」と言われ、神様に対する義務もあると言われたのです。人間は神様の御姿に似せて造られている神様の肖像が刻まれた霊的な存在であり、したがって神様に属している者であることを教えられました。神様がご自分に属する人間に納めて欲しいと求めておられる義務は、「悔い改め」だけです。イエス様が宣教の第一声に「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイの福音書4章17節)と言われた通りです。悔い改めれば、そこから信仰が生じ、従順となり、礼拝をするようになり、神様の指示に服従できるようになります。この「悔い改め」の義務が神様に納められるとき、その人の心に「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という九つの御霊の実が生ずると、使徒パウロはガラテヤ人への手紙5章22節で教えています。わたしたちも神様のものは神様に返して、愛に満たされた人にならせていただきましょう。


人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。

©2017 Rev. Manabu Wakabayashi