第10章 人間の応答としての回心に関する真理


 回心の過程で人が果たす役割は、しばしば「救いの計画 (the plan of salvation) 」と呼ばれることがありますが、表現が立派な割には、おそらくその意味が伝わらないでしょう。しかし用語法にこだわるつもりはありません。大切なのは、罪びとがキリストの救いのわざの恩恵を受けるためには、神の招きに対してどのように応答すべきかということです。
 「救いの計画」はさまざまに定式化されていて、どれが「正式」でどれが「正式でない」ということは言えません。よく、「信じ、悔い改め、バプテスマされ、クリスチャンとして生きる」といいますが、これにはかなり問題がありますので、むしろ以下のような「定式」を奬めたいと思います。それはこの章の小見出し順になりますが、「恵みにより、信仰を通して、バプテスマの時に、よい働きのために」というものです。
 救いの計画をこのような定式で述べることには2つの利点があります。第1にそれは救いが恵みによるものであるという本質に合致しています。第2に、それはエペソ2:8-10という短い聖書の1節にのっとっており、コロサイ2:12にも並行聖句があります。

T. 「恵みにより」


 「あなた方の救われたのは、実に、恵みによる ... それは、神のたまものである」(エペソ2:8)。「計画」の第1段階として「恵みにより」ということがありますが、それは救いの基盤を表しています。つまり、それは神の恵みのご性格とキリストの恵みのわざを示しています。スポットライトを例にとると、照らされたところ、つまり罪びとの応答がすぐに注目を引きますが、実は照らすスポットライトのあることのほうが重要なのです。こうしてみると、このあとの定式をどのように組もうと、それは恵みということと首尾一貫していなければならないということが分かります。
 罪の救いが恵みによるものだということを、最初にしっかり理解していることはとても大切なことです。そうすれば、このあとで救いが自分で勝ち得たものだとか、あるいは自分にその価値があるとかいうような誤解をする事がないからです。というのは、知らず知らずのうちにこうした誤解をしていることが、本当によくあるのです。救いの計画が恵みによるものとしてでなく、律法主義にのっとって提示されることが余りに多いのです。その結果、回心した罪びとが、自分の業によって救われるのだという態度でクリスチャンとしての生活を始めがちです。
 回心に当たって必要なことを説明するときには、律法を守ることによってではなく、恵みによって救われるために守らなければならない一連のきまりのように示すべきではありません(そんなことをすれば、長い律法を短くしたもので置き換えたのに過ぎず、依然として律法主義であることには変わりないことになります)。これらのことは私たちがしなければならないこととしてではなく、私たちができることとして教えられるべきです(本来はこれがウオルタースコットや他の人々の考えだったのです)。自分自身を振り返ってみましょう。教会で救いの計画を提示するその仕方だけでも、神の恵みをボカしてはいなかったでしょうか。
 そのような誤りはこの計画を教える方法上で犯されるのみではなく、定式上の各段階が救いのために重要性の点で同等だという印象をもたせることでも犯されるのです。その誤りの例としては、こんなふうに言うことです、「救われるためにあなたができることは以下のことです:信じて、悔い改め、バプテスマを受け、クリスチャンの生活を送ることです」。こんなことを言ったのでは、救いを確かなものとするためには信仰やバプテスマと並んで、「クリスチャン生活」が同等の重要さを持っているという印象を与えてしまい、神の恵みが除外されてしまいます。というのも、「クリスチャン生活を送る」というのは、よい働きとか神の戒めを守るということを意味しますから、自分の行いによるものだと教えることになってしまいます。
 こうしたことを避けて、恵みが明確化され強調されるにはどのようにしたら良いでしょうか。それはおそらく、この計画中の個々の要素に異なった助詞をつけて、それらと救いとの関係が各々違うということをはっきりさせれば良いのでしょう。それがここで奬められていることなのです。「恵みにより」とは恵みが救いの基盤だということです。「信仰を通して」とは救いを受ける手段を表しています。「バプテスマの時に」とは救いを受ける時を示し、「良い働きのために」とはクリスチャン生活の良い働きが救いの基盤だというのでなく、むしろ救われた結果だということを明らかに示しています。

U. 「信仰を通して」


 「あなた方の救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。 ... 決して行いによるのではない」(エペソ12:8,9)。信仰を通してというのは、罪びとが神の恵みに満ちた贈り物を受けるための手段を表しています。もし、ある罪びとが「救いを受けるために私は何をしたら良いでしょうか」と尋ねるなら、その答は「それを受け取るのはあなたが何かをするからではありません。信仰を通して受けるだけ」ということです(使徒16:30,31参照)。
 救いは神の恵みによるものである以上、人間の行為によって手に入れることはできません。人間の行為によるとすれば、恵みの本質に反することになります。「恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと恵みはもはや恵みでなくなるからである」(ローマ11:6)。救いは何かに支払われる報酬のようなものではなく、価なしに与えられる贈り物です(ローマ4:4,5参照)。これが信仰を通してだけ救いがやってくるという理由です。信仰は人が成し遂げる行為ではなく、神への態度とか考えあるいは、心の持ち方です。信仰は素直で柔軟なものですから、恵みと良く合致するのです。
 このようにして信仰は救いを可能にする手だてなのです。みなさんの中には、どうして信仰などという弱々しく見えるものにそんな力があるのだろうと思う人があるかも知れません。しかし、信仰そのものに力があるわけではないのです。信仰の対象である全能の神に力が宿っているのです。自分の行為を頼みとすべきでないのと同様に、(多くの人が誤りがちですが)自分の信仰をも頼みとすべきではないのです。私たちが頼るべきなのは、神とその力、その約束です。繰り返しますが、これが恵みにより信仰を通してのみ救われるということなのです。なぜなら、信仰は救いがすべて神にかかっているということを、私たちが単に認めて受け入れるということに過ぎないからです。
 信仰の本質は、神をそのみことば通りに受け入れることです。神の言われたことを私たちが信じるということは、信仰がかなり具体的な内容にわたることを意味します。というのは、神が聖書を通して多くのことを言っておられるからです。神が何かを語られ、私たちがそれを真理だと信じることは《同意》と呼ばれます。神がある約束をされて、私たちが神にはそれができると信じ守ることは《信頼》と呼ばれます。神を信頼し、神との約束をキリストにあって守ることは恵みにとどまることです。 ローマ4:16-25参照。
 気をつけなければならないのは、信仰の定義の中に人間の側の行いを持ち込んできてしまって、恵みと信仰との間の自然の調和を壊してしまわないようにすることです。パウロは救いとの関係で信仰と行いをはっきり対置させて、こうしたことの過ちを指摘しています(「信仰により...決して行いによるのではない」エペソ2:8,9;ローマ3:28; 4:5 参照)。行いを信仰の一部分にしてしまっては、「恵みによる信仰を通しての救い」という概念全体が無になってしまいます。
 同様に、信仰を神の恵みによる贈り物のひとつにしてしまっては、その自由意志性を壊してしまいますから、気をつけなければなりません。パウロは神の贈り物としての恵みと、人間の応答としての信仰をはっきり区別しています(「恵みにより...信仰を通して」エペソ2:8)。ヨハネ6:28,29でイエスは、信仰は人の決心にかかるものだといわれましたが、ここで彼は信仰を「わざ」と言っています。これは最も広い意味で言う「私たちのすること」を指しています。イエスは神が私たちに望まれるものという意味で、信仰をそうしたわざだといわれたのです。
 以下のことも特に指摘しておきたいのですが、神への正しい態度としての信仰には、罪に対する正しい態度としての悔い改めがいつも伴うということです。神をそのみことば通りに受けとめるということは、罪を憎み、自分の生活の中の罪を除き去りたいという熱心さにつながります。これが悔い改めであり、これも恵みを受けるひとつの態度です。それはある意味で信仰の内面的事柄です。 ルカ13:3; 使徒2:38参照。(悔い改めは、人生の実際的やり直しといった形での人間的行為を含むものではありません。さもないと人間的行いによる救いに逆戻りしてしまいます。悔い改めとは自分の願い、あるいは変わりたいと思う気持ちであって、実際的変化そのものではありません。)

V. 「バプテスマの時に」


 エペソ書とコロサイ書がパウロのふたつの「獄中書簡」ですが、内容的に並行しているということは一般に認められています。 エペソ2:1-11コロサイ2:11-13が似ているということは、両方の内容を比較してみるとすぐ分かります。たとえば、罪の中での死、キリストと共によみがえること、生かされること、割礼が手によるかよらないかについて、信仰を通して神が働かれることなど。しかし、コロサイ2:12はエペソ2章にはふれられていないある重要なポイントを含んでいます。それは霊的割礼とか霊的死からの復活は神の行為としてバプテスマの時に行われるということです。「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである」(コロサイ2:12)。恵みは基盤であり、信仰は手段ですが、バプテスマは救いがはじめて与えられる「時」なのです。
 聖書の不変の教えは、罪びとがキリスト教のバプテスマの時に恵みという贈り物を受け取るという事です。これがイエス・キリストとひとつになる救いにはいる時点です:「キリストに合うバプテスマを受けたあなた方は、みなキリストを着たのである」(ガラテヤ3:27)。バプテスマは罪ととがめと罰が取り去られて、罪びとが赦されて義なる人とされる時点なのです。「罪の赦しを得るために...バプテスマを受けなさい」とペテロは言っています(使徒2:32)。バプテスマは同時に、聖霊が罪びとの命に受け入れられるときに、キリストと共に新しく誕生するという意味での再生が成し遂げられるのです(ヨハネ3:5; テトス3:5; コロサイ2:12)。 使徒22:16; ローマ6:3,4; 1ペテロ3:21; マルコ16:16も参照して下さい。
 これらの聖句が水によるバプテスマについて言っているという事は疑いのないところです。通例、クリスチャンが経験する真のバプテスマはひとつです(エペソ4:5)。それには内側と外側(つまり水と霊)というふたつの面がありますが、1回の出来事です。 ヨハネ3:5; ヘブル10:22参照。使徒行伝やヨハネ伝中のバプテスマについてのこうした出来事への言及を、水によるバプテスマと無関係だとする事は、クリスチャンにとって不自然であってできない事です。
 この聖書の教えは明確なのに、かなりの数の誠実なクリスチャンが拒んでいます。バプテスマは人間の行為だという前提に立って、彼らは救いは信仰を通して与えられるもので、人間の行為を通してではないといいます。それは正しいのですが、気をつけなければならない事は、聖書がどう言っているかです。聖書は私たちがバプテスマを通して(手段として)救われるといっているのではなく、バプテスマの時に(時期)救われるといっています。何かを受け取る手段というのは必ずしも、それを受け取る時期とは限りません。「〜を通して(through)」という言葉は、必ずしもみんなが考えているように「〜した時すぐに(as soon as)」という意味ではありません。神が言っておられるのは、私たちが信仰を通して救われるのだけれども、それはバプテスマの時にだという事です。これらふたつの事には矛盾がまったくありません。
 しかし、バプテスマは人間の行為ではないか、という反論が依然として起きてきます。もしそうであるなら、救いとの関係でバプテスマを手段としようが時期としようが、救いは人間の行為に依存する事になり、神の恵みを無にしてしまう事になるのではないかというわけです。マルチン・ルターがこの質問を受けたとき、彼は適切な答をして、バプテスマは行為には違いないが、私たちの行為ではなく、神の行為であるといいました。罪びとはバプテスマの時に何らかの行為をするのではありません。実際、彼は本当に受け身なのです。「バプテスマを受けなさい」と言われるのであって、バプテスマをしなさいといわれる事は決してありません。実際の行為は神によってなされます(コロサイ2:12の「神の力」は、直訳では「神の行為」です)。神はキリストの血を罪を犯した魂に注ぎ、死んだ魂を聖霊を通して生命に引き戻して下さいます。バプテスマは「良い行い」とかクリスチャンの従順の行為といったカテゴリーに含められるべきではありません。それはユニークで独自のカテゴリーなのです。
 バプテスマは恵みという事と矛盾しません。なぜなら、その本質は神の約束であり、この約束に私たちは信頼するからです。バプテスマは命令(ないし規則)ではなくて、約束(ないし恵み)なのです。私たちはこの視点に立って宣べ伝えるべきです。バプテスマの際に、神は罪びととお会いになって、救いという贈り物を下さると約束しておられます。救いに至る信仰をもった人は、すぐにこの約束を受け入れ、水によるバプテスマのうちに救い主にお会いしようと急ぐでしょう。(信仰がバプテスマの前提要件だという事から分かるのは、バプテスマが幼児やごく小さい子供のためのものではないという事です。)

W. 「良い行いのために」


 私たちが恵みにより、信仰を通して、バプテスマの時に救われるのであるならば、キリストに従う行いはこの図式にどのように組み込まれるのでしょうか。パウロは、それは救いの結果だといっています:「あなた方の救われたのは、実に、恵みにより...良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」(エペソ2:8-10)。「キリストにあって、造られた」というのはクリスチャンのバプテスマの時に新しく造られた事、あるいは新生を指しています(2コリント5:17参照)。神は私たちがクリスチャンとしての生活を送る事ができるように、新しくして下さったのです(本書第12章をご覧下さい)。
 このようにして私たちは行いによって救われたのではなく、行いのために救われたのです。この前提要件を間違えないようにしましょう。救いの理解全体がここにかかっているからです!

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