第12章 聖化についての真理


 罪が引き起こす二つの根本的問題とは、「」と「病める状態」(sickness)でした。そして救いは両者の解決を含むものでした。先ほど見たように、義認は私たちの科を取り除くものです。しかし、もし救いがそれだけしか意味しないのであれば、私たちは依然として弱く、望みなく、また罪の鎖に押さえつけられたままでしょう。罪深い習慣や傾向の欲に打ち勝って前進することなどできないでしょう。
 「しかし、恐らくそうしたことは大した問題ではないのではないか。つまり、私たちが恵みにより信仰を通して義とされるのであるならば、行いがなお必要だろうか。私たちは神の律法にそれでも従わなければならないのだろうか?罪を犯し続けるかどうかということは、本当に問題になるのか?」。誰かがそうした疑問をすぐに持つとしても、その気持ちは良く分かります。というのは、それほどに恵みの福音は驚くべきものであり、普通の考え方に比較すると、革命的でさえあるからです。ローマ6:1を見て下さい。そこにはこう書かれています、「では私たちは何と言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。」
 しかし、実はこれは大切な問題なのです。誰も好き勝手に考えることすらできません(ローマ6:2)。そのために神は単に私たちの科を取り除くだけでなく、罪に弱められた私たちの状態を、霊的にもまた肉体的にも健康に回復するための手段を講じて下さったのです。これが「二重の癒し」(double cure)の2番目が意味するところであり、このことによって神は罪の束縛力を打ち壊して私たちを聖めて下さったのです。神がなさるこのプロセスはしばしば「聖化」と呼ばれますが、この章で取り扱います。

T. 聖化の意味


   「聖化」(sanctify)とは聖く(holy)するという意味です。聖化された(sanctified)人とは聖い(holy)人であり、聖人(saint)ということと変わりありません。これらは同じ意味を表すギリシア語とヘブル語の単なる翻訳の違いですから、英語の辞典を調べて意味の違いを見つけだそうとすべきではありません。
 特に旧約聖書でのこれらの語の用いられ方を見ると、聖化や聖さには基本的に2つの面のあることが分かります。第1には本質的聖さ、つまり<普通のものとは別にして取って置かれている>とか、<切り離されている>状態です。これは神が全てのものに超越しているという意味の聖さに相当します。神は被造物そのものと異なっており、また、かけ離れておられます。第2の面は倫理的に見た聖さで、<罪からの分離>ということに関係しています。これは道徳的な清さと正しさという意味で神の聖さに対応するものです。
 クリスチャンはこれら両方の意味で聖められています。私たちがキリストの血によって、古い自分の生き方や「今の悪の世」(ガラテヤ1:4)から切り離されるとき、最初の聖化が始まります。これがバプテスマというキリストの血の贖いが及ぶときに起こる出来事なのです(1コリント6:11; ヘブル10:29; 13:12)。 これによって私たちは暗闇の世界からキリストの世界へと移されます(コロサイ1:13)。私たちは古いものから新しいものへと造りかえられます(2コリント5:17)。これは既にそうなることになっている事実ですから、このようにして聖化された人々、つまり切り離された人々は聖徒(saints)と呼ばれるのです(1コリント1:2)。
 私たちが聖化を受けるのはこの一回切りの出来事によるだけではありません。漸進的聖化ということがあって、この過程で恵みや知識、罪の克服、清い行いや聖性が増し加わるのです。これが、罪を犯すことのない神の聖性との共通点ですが、唯一の違いは神にあっては常にそうであるのに対し、私たちはそのように努めなければならないという点です。この意味での聖化は、義と真理の聖さという点でますます神のようになってゆくということです(エペソ4:22-24)。
「あなた方を召して下さった聖なる方にならって、あなたがた自身もあらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者となるべきである』と書いてあるからである」(1ペテロ1:15,16)。2ペテロ1:4; 3:18参照。
 他の派、特にウェスレーの流れを汲む人々は「全的聖化」(entire sanctification)ということを言います。彼らが信じているのは、「恵みの第2の働き」によって神はクリスチャンに道徳的な完全性をこの世にあってお与えになるということです。しかし、この見方は聖書にはほとんど根拠がありませんし、経験的にも矛盾しているようです。聖化は全クリスチャン生活を通じ、成長過程として続くのです。私たちは完全な聖性をめざして努力するのですが(1テサロニケ5:23; マタイ5:48)、その完成は死の後にのみ来ると考えられます(ヘブル12:23「全うされた義人の霊」参照)。

U. 聖化の可能性


 私たちの生き方の目標とすべき聖さのモデルは神ご自身の聖性です(1ペテロ1:15,16)。その聖さの御性質は聖書にあらわされたみことばを通してのみわかります。この意味で私たちは神の言葉によって聖められるのです。ヨハネ17:17; 使徒20:32; 1ペテロ2:2参照。
 ただし、なすべきことを聖書から知ったからといって、それで実際にできるとは限りません。罪びとの霊的弱さを考えれば、知識だけでは聖さを生み出すに充分ではないということがわかります。神の言葉にふれ、強められて悪を離れようと心に決めた時でさえも、自分の力では罪を憎みうち克って善を行う可能性も力もないということがわかります。 ローマ7:14-24参照。
 しかし、これこそ神がキリストの救いのみわざによって備えて下さった恵みのひとつなのです。つまり聖められた人生を送るための可能性と力です。この節では神が聖化を可能なものとするためにして下さった事を説明したいと思います。
 救われる前の人にとっては、真によいこと、つまり内面的にも外面的にも良い行いをするのは不可能です。罪びとは霊的には死んでいますから(エペソ2:1)、神から切り離されています。この不信の状態では、彼は神を喜ばせる行いをする事ができません。「信仰がなくては、神に喜ばれる事はできない」(ヘブル11:6)。木自体が変わらなければ、悪い実を結び続けるのです(マタイ7:16-18; 12:33-35)。
 しかし、回心の時に神は私たちを変えて下さって、罪の力から解き放ち、聖さを受ける事ができるようにして下さいます。この変化は新生ないし再生と呼ばれ(テトス3:5; ヨハネ3:5)、 あるいは再創造(エペソ2:10; 2コリント5:17)、死からの甦り(エペソ2:5,6; コロサイ2:12,13)とも呼ばれます。 これは聖霊が私たちの心に働いて起こす変化であり、義認が神との関係の変化であるのとは対照的に、私たちの実際の「状態」の変化なのです。再生も最初の聖化(initial sanctification)も同時に起こりますが、両者が区別すべきものだという事は大事です。
 カルビン主義の不可抗的恵みという考え方には、この変化に相当するものがありません。カルビン主義によれば、聖霊は罪びとが変えられたいと思ったり、信仰を持ったりする前にその心に入って変えるのだというのです。しかし、聖書によれば、再生は罪びとが神の言葉によって信仰を持ちたい・変えられたいとの願いに導かれ、その後で神の霊の人を変える力に自分を委ねるのです。この「神の働き」はクリスチャンのバプテスマのときに行われ、そこで聖霊が与えられて、罪びとは新しい生命に引き上げられるのです。使徒2:38; コロサイ2:12; ヨハネ3:5; テトス3:5を参照して下さい。
 聖霊がどのように働くのかとか、その変化の本質がどのようなものかということについての具体的説明は聖書には書かれていません。しかし、大切な事は、再生の本質ではなく、その結果なのです。内面的変化の目的が、私たちを聖めてクリスチャン生活を送れるようにすることにあるというのは明かです。エゼキエル36:26,27はこう預言しています:「私は新しい心をあなた方に与え、新しい霊をあなたがたの内に授ける....私はまたわが霊をあなたがたの内に置いて、わが定めに歩ませ、わが掟を守ってこれを行わせる」。エペソ2:10はとても具体的です:「私たちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」。聖霊の業である内面的再創造の目的は私たちが良い行いをすることができるようにする事です。こうして聖化が可能になるのです。

V. 聖化のための力


 クリスチャンのバプテスマによって聖霊が与えられるときに、すぐに起きる結果は新しい生命(new life)です。持続的結果はその聖霊が私たちの体と命そのものに宿り続ける事です。パウロはクリスチャンの体は「自分の内に宿っている聖霊の宮」であると言っています(1コリント6:19)。イエスは信じる人々に活力に満ちた泉のような聖霊が与えられるでしょうと言っています:「私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これはイエスを信じる人々が受けようとしている御霊を指して言われたのです(ヨハネ7:38,39)。ローマ8:9-11を参照して下さい。
 なぜ聖霊は私たちのうちに宿るために来るのでしょうか?それは私たちを聖化し、聖いものとして下さるためです。その方法は、決して私たちの知識を増したり、新しい啓示とか、何か神秘的な「導き」と言ったものを与える事によるのではありません。(知識は聖書を通して既に与えられているのですから)。むしろ、聖霊は私たちに力を与えて聖めるのです。私たちの内に特別な方法で宿ることによって、聖霊はいつでも引き出せる力と強さの源なのです。私たちはその方と共に働きますが、その方なしに私たちは聖められる事ができません。
 キリスト教の初期には、聖霊は教会のある人々に奇跡を行う力を与えました。これらの奇跡的な霊的賜には特殊な目的があって、新約聖書がまだ完結されず、各教会に流布していなかった初期クリスチャン時代の特別な必要を満たすためのものでした(1コリント13:8-13を参照)。現代の私たちは聖霊からこの種の力を受ける事を期待すべきではありません。
 聖霊が本当に私たちに下さる力は、しかしクリスチャン生活にとってとてもすばらしく、また有益なものです。聖霊は私たちに道徳的な力や霊的力、誘惑や罪に対抗して打ち勝ち善を行う力を備えて下さいます。罪と戦い、救いのこうした局面である聖化を成し遂げる私たちの意志力を強めて下さいます。パウロはこう祈っています:「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により力をもってあなた方の内なる人を強くして下さるように」(エペソ3:16)。あなたも「自分の救いを達成すること」ができます。なぜなら「あなたがたの内に働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだから」です(ピリピ2:12,13)。ローマ8:12-14;1ヨハネ4:4; 1コリント10:13を参照。 聖霊は私たちと共にいて力を与えて下さいますが、それは私たちが目を覚まして意欲的に罪と戦い、聖さを求めようと一生懸命取り組む限りにおいてなのです。私たちがそうするならば、聖霊は私たちを助け、善であろうとする内側の力を強めて下さいます。ただ、自分の力や意志力にのみ頼ろうとすべきではありません。むしろ、聖霊の力により頼むべきです。聖霊を通して力を与えて下さるとの神の約束に信頼しましょう。エペソ3:16はこの内側の力を求める祈りの良い例です。

W. 聖化を求める動機


 一部の人々は誤解から恵みによる救いの結果、私たちは神の戒めに従う義務から解放されたのだと考えています。真理のこのうえない誤解です。神に従う義務は天地創造の事実にその基礎を置いていますし(詩篇24:1,2)、何物もそれを変更することはできません。恵みによって救われていることは、この義務の上に何の影響も及ぼしません。律法からの自由は義務からの自由を意味するものではありません。私たちは恵みのもとでは救いの道としての律法から自由になっていますが、それは従順という標準ときまりを守らなくとも良いということではありません。 恵みによる救いは、私たちがみこころに従いたいと思う動機を大幅に変更するものではありません。客観的義務(なぜ私たちが何かをすべきなのかということ)と主観的動機(なぜ私たちが実際にそれをするのかということ)を混同すべきではありません。前者は変わることがありませんが、後者は私たちが恵みのもとに来るときに大幅に変わるのです。
 人が律法によって(つまり、律法を守ることによって)救われようとするとき、その人の行いが自分の救いの基礎であり、手段であることになります。したがって、その人は単に地獄行きを免れ、天国に行きたいという動機で律法を守ろうとするだけです。しかし、恵みのもとでは地獄行きを免れ天国に至るのは、信仰によって受け取る贈り物であって、行いによるのではありません。ですから、私たちが律法を守る動機はもはやそのようなものであってはなりません。私たちがクリスチャンとしての生活を送るのは処罰への恐れや報償目的によるのではありません。私たちには信仰によって義とされているということが分かっていますから、これらの低次元の動機から解放されています。
 私たちが罪と戦ったり、善であろうとするのはいったいどういう動機からでしょうか。それはなにものよりも強い、感謝からくる愛という動機です。私たちがもし本当に神を愛するならば(そして神が私たちにして下さったことを知ったからにはそうせずにはおれないのですが(1ヨハネ4:18,19)、本当に神を愛するならば、私たちはみこころを行うことで神に喜んでいただきたいと思うはずです。「もしあなた方が私を愛するならば、私の戒めを守るべきである」と私たちの主は言われました(ヨハネ14:15)。信仰は行動します。それは愛を通して行動します(ガラテヤ5:6)。

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