第9章 回心についての真理:神の招き


 罪びとは死の束縛と罰の下にありますが、キリストは死に勝たれました。彼はすべての人に救いを可能にし、またそれを与えたいと思っておられます。ここでよく持たれる疑問は、「どのようにしてこの救いが一人一人の罪びとに、もたらされるのだろうか」ということでしょう。
 これは回心という問題です。どのようにして未信者は信仰者となるのでしょうか?死んだに等しい罪びとがどうやって生命を得るのでしょうか?赦されていない人がどのようにして赦されるのでしょうか?そのような回心という大変化が起きるためには何が必要なのでしょうか?
 回心のプロセスにはふたつの要素が関係しますから、質問への答にもふたつの要素があります。つまり、神の招きと人間の応答です。この章では神の招きだけを取り扱います。イエスはヨハネ6:44,45で、罪びとは救いを求めるように前もって仕向けられていないといっています。神が招くか、引き寄せるのでなければならないのです(ローマ8:28-30)。しかしこれはどのようにして起きるのでしょうか。このことに関しては誤った見解が広まっているので、聖書の立場を述べる前に、その誤った見解をまず検討してみる必要があります。

T. カルビン主義


 神の招きについての誤った見解はカルビン主義にあります。カルビン主義というのは、16世記にジョン・カルビンによって唱道された一連の神学教義ですが、考え方自体はカルビンより先のアウグスチヌスにもありました。カルビンの理論は普通、頭文字をとってTULIP(チューリップ)と要約されています。この頭文字はそれぞれ以下のことを示しています:

 すでに見たように、全面的堕落は聖書の教えではありません。このことは、この誤った理論の中で中心的重要さを持っていますから、かなりのスペースをさきました。もし誰かが全面的堕落を認めるならば、神の招きに関することを含めて、カルビン主義の誤りに陥ってしまわざるを得ません。それでは、まずこれらについて説明し、後にその誤りをただすことにしましょう。

A. 無条件的予定

 前にも述べましたが、全面的堕落説の中心には全面的無能力の考えがあります。これは罪びとは霊的に善いことを選択する力がまったくないとする考え方です。人間の意志は罪によってがんじがらめにされており、福音に対して信仰を持ってこたえてゆく自由意志の能力は破壊されてしまっているというのです。人間にとって救いという神の贈り物を受け取ることは不可能だとするのです。カルビンによれば、これがアダムの罪のゆえにキリストを除く全人類に及んでいる苦境です。
 これは深刻な問題になります。人間にはキリストの救いが必要なのに、それを受ける力がなく、たとえイエス御自身がテレビの世界中継で、可能な限り力強く説得力ある方法で救いを提示したとしても、誰も力がなくて受け入れられないことになります。これではまるで墓に立ち、死人に向かって「さあ起きあがって墓から出てくる人にこの1千万円をあげよう」と言うようなものです。
 そんなことではいったい誰が救われ得るでしょうか。カルビン主義の人にとってはその答は簡単です。人間が救いを選択できないのだから、神御自身が救いたい人を選ぶしかありません(そして、残りの人々は罪の中にとどまるのです)。どうして神がすべての人を選ばないのか、またこの人を選び、かの人は選ばないという理由が何なのかについては、人間の知るところではないとするのです。この主義の信仰は非常に単純です。全人類の中から神は特定の人を無条件に選び出し救う、とするのです。
 神がいつこの選択をされたのかについては、神が宇宙の創造を計画されたときに行われ、すべてのものの創造に先立ち、誰が天国に行き誰が地獄に行くかを決めてしまったといいます。あらゆるものが事前に無条件に決定されたというこの見解は「予定説」と呼ばれています。

B. 不可抗的恵み

 全面的堕落と無条件的予定とが組み合わされると、カルビン主義での神の招きに関する「不可抗的恵み」と呼ばれる見解につながります。もちろん福音説教によってすべての人に向けられた対外的招きというものはあるのですが、これは罪びとの心に何等の影響も及ぼさないことになります。ですから、この対外的招きに加えて、神は選ばれた人々に対して、特別の内面的招きを通してなされるとしています(この「招き」は耳に聞こえる実際の声とか言葉とかいうものではありません)。この特別の招きを受けるべく選ばれた人々はそのために準備をしたり、願い求めたりしていたのではなく、むしろ望んでいなかった場合すらあるのです。彼らの心がいまだ努力とかをする以前に、神がこれらの選ばれた罪びとの心の内側に特別に働きかけて下さり、回心の全行程を瞬時に起こして下さるというわけです。
 カルビン主義者はこれを特に聖霊の働きとしています。聖霊は選ばれた人々の上に降り、その人の状態と神との関係をまったく変えて下さるわけです。聖霊がその人に与えるものは新しい心(再生と新しい誕生)と罪の赦し、悔い改め、そして信仰そのもの--これらすべてです。
 この招きには2つの特徴があります。第一にそれは精選であること。つまり、「選ばれた」人のみがそれを受けるということです。救われることにきまっていない人は招かれてはいないのであり、ただただ罪の内に死ぬしかないということになります。第二にそれは不可抗であること。これは神の超自然的働きであって、罪びとは逆らうことができません。招かれた人々は必ず応答し救われることになります。これがカルビン主義と呼ばれる見解です。これに対しては次の節で答えてゆきましょう。

U. 聖書の見解


 人間が改宗する時に果たす神の役割に関するカルビン主義の見解は、全面的堕落説と密接に結びついているので、後者が誤りであることが明らかになっている以上、それにともなって前者も問題にならなくなります。しかし、全面的堕落説が聖書に反することはすでに明らかにしましたが、神の招きとの関連で、無条件的予定と不可抗的恵みについても聖書の見解を述べることにしましょう。

A. 条件付き予定

 多くの人々は聖書には予定(predestination)の考えがまったくないと思っていますが、実はあるのです。パウロは言っています:神は「私たちにイエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」(エペソ1:5)。「そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」(ローマ8:30)。2テサロニケ2:13参照。
 これはどういう意味でしょうか?いったいカルビン主義者が正しいということでしょうか?いいえ、そうではありません。なぜなら、彼らは神の予知(foreknowledge)という、予定説の中での最も重要な要素のひとつについて誤解しているからです。大昔から神は、特定の人々を予定ないし選んで、復活のキリストとともに天に交えて下さいますが、それは神がその人々の生涯の特定のことについてあらかじめご存知だからです。ローマ8:29がこのことをはっきり述べています:「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似た者にしようとして、あらかじめ定めて下さった」。1ペテロ1:1,2参照。
 神があらかじめ知っておられるところの、救うかどうかを決定する事柄とは何でしょうか?次の章で詳しく述べますが、神は単に、誰が福音に応答し救いの条件に合うかということをあらかじめご存知なのです。神には現在・過去・未来のすべてを知る力があるからです。
 ですから、確かに「聖書的予定」というものがあるのですが、それはカルビン主義の見解と同じではありません。少なくとも2つの大きな違いがあります。第一は、聖書的予定は条件付きであって、「無条件的」ではありません。神に選ばれるには特定の条件に合致する必要があり、その条件というのは聖書からどういうことかが分かっています。この条件に合致し選ばれるかどうかということは、実は私たちの決心にかかっているのです。
 第二に、カルビン主義とは逆に、神は特定の罪びとを選んで信仰者とするべく予定するのではありません。むしろ、神は(あらかじめ知っておられる)すべての信仰者を選んで、天に住むべく予定して下さるのです(ローマ8:29の「御子のかたちに似た者としようとして、あらかじめ定めて下さった」というのは、私たちが復活の時に、キリストの身体と同じように栄光に包まれるということをいっているのです)。罪びとの誰が信じる者となるかということは神がお決めになることではありません。決定権は罪びとの方にあるのです。しかし、神は誰が御国に永遠に住むかということを決定されますし、あるいはもうすでに決定しておられるのです。なぜなら、神は誰が福音を受け入れるかということをご存知だからです。神は私たち一人一人の名前まで知っておられます。ルカ10:20参照。

B. 福音による招き

 罪びとの心はかたくなで、神への反抗をやめようとしないし、また従おうともしません。だから、まさしくイエスが言われたように、「父が引き寄せて下さらなければ」(ヨハネ6:44)誰もイエスのもとに来ることはできません。しかし神はどのような手段で罪びとを引き寄せ、招かれるのでしょうか。私たちの心の中に、何か分からないけれども、聖霊が入れることのできるスイッチのようなものでもあるのでしょうか。いいえ、聖書は回心の時のそういった要素については何も言っていません。神が招き、聖霊が罪びとを信仰に導く手段というのは、ただ福音のメッセージ、つまり神の言葉です。それが反抗の鎧を断ち切り、聞く耳のある心に信仰の種を植える力を持っているのです。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ 10:17)。ペテロは言っています:私たちが「新たに生まれたのは、朽ちる種からでなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生けるみ言葉によったのである」(Iペテロ1:23)。 ヨハネ6:45; 12:32; 20:31; ローマ1:16; ヘブル4:12; ヤコブ1:18参照。
 この福音による招きの性質はどのようなものでしょうか。第一に、それは普遍的(universal)です。神が選び出したり選択したりするのではありません。神の救いはすべての人に開かれています。ヨハネ12:32でイエスが言っておられます、「そして私がこの地から上げられるときには、すべての人を私の所に引き寄せるであろう」。ここでの「引き寄せる」という単語はヨハネ6:44での「父が引き寄せる」と同じです。キリストが十字架によって引き上げられたというメッセージは、それを聞くすべての人の心を引きつけます。2ペテロ3:9; 黙示22:17参照。
 しかし、この招きは拒み得る(resistible)ものです。招きはすべての人に向けられていますが、すべての人が招きを受け入れるとは限りません。罪びとにはなお自由意志があって、神が引き寄せて下さることに従うことも、拒むこともできます。「あなた方は応じようとしなかった」(マタイ23:37)とイエスが言ったのは、これらの拒む人たちに対してでした。使徒7:51; 2:41; ヨハネ1:12参照。
 ですから、これが神の恵みに満ちた招きという、回心の最初の過程です。次の疑問は、罪びとはその招きに対してどのように応じるのだろうか、ということです。

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