第11章 義認についての真理


 これまで、キリストの救いの業による恵みという事について何度かふれてきましたが、詳しく論じる事はしませんでした。これから終わりの章までは、3つの恵み、つまり義認・聖化・確信について、それらが一体何なのかという事をより深く説明したいと思います。
 罪びとが陥っている苦境を表現するために「二重苦」という言葉を前に使いました。それは自分の罪が根本的に二つのあり方で私たちに影響を及ぼしているという事です。第一に、罪は私たちを科(とが)ある者とします。第二に、私たちを霊的に欠陥のある、いわば病気の状態にします。ですから、問題は第一に、神との関係で責めあることであり、第二に病気の状態である事です。
 イエス・キリストによってもたらされた救いは、これら両方の問題を一挙に解決するものです。ある人は賛美歌の中にこう要約しています:「水と血が、あなたの傷つけられた脇から流れた罪の二重の癒しとして。その科と縄目から私を救って下さい」(あるいは、「怒りから私を救い、きよめてください」)。
 この章では、特に科(とが)の問題の解決に焦点を当てたいと思います。神はどのようにして私たちの科と責任を取り除き、ご自身をその律法との正しい関係に私たちを回復して下さるのでしょうか。義認についての聖書の教えにその答があります。

T. 義認の意味


 罪びとはどのようにして義とされるのでしょうか。これは、ローマ人への手紙のはじめの数章の主題です。神は「不信心な者を義とした」とパウロが言っていますが、それは律法を守ったからではなく、恵みと信仰とまたキリストの血によってです(ローマ3:20,24,28; 4:5; 5:9)。
 神が私たちを義とするとき、実際のところ何が起きるのでしょうか。義とされた人とはどういう意味でしょうか。このことばは基本的には正義(justice)(その語源は「正しい、公平」)と関係があります。ある人は義認を正義とか神聖の実際の状態を意味すると解釈していました。この見解によると、「義とする」とは「正しい者、神聖で清い者とする(make)」を意味する事になります。これが、ローマ・カトリック教会の教えでした。トレント公会議の宣言はそのVI:7に、義認は「人間の内面を聖別し、新しいものに作り変え...その結果、人間は...義とされる」とはっきり記しています。神が私たちを義とし、その結果私たちは「内に義を受けた義なる者」であるわけです。他にもこのカトリックの教えに従う人々がおり、その中には良く知られた異端の人たちもいます。
 しかし、義認についてのこの理解は当を得ていません。「義化」という単語は「義とする」という意味ではなく、「義と宣言する、義とみなす、義として扱う」という意味なのです。ルカ7:29にはこの点がはっきり書かれています。その直訳は、人々が「神を義とした」ですが、明らかにこれは、彼らが神を義なる方と宣言したという事であって、神を義なる方と為した(make)のではありません。その意味するところは、義認が私たちの状態や、罪に陥った性質の者である私たちの内側を変化させるというものではないことです。義認は神とその律法との私たちとの関係の客観的・外形的変化です。それは基本的には罪の赦しや免除と同じです。ローマ4:6-8を参照して下さい。
 義認は法律的概念ですから、裁判をするときの状況に置き換えるとよく分かります。科(とが)も法律用語で、法律との関係で悪いことを表します。ですから、その修復としての義認は同様の観点から理解されるべきです。厳密に言って、「義とする」というのは「有罪宣告をする」(condemn)の正反対です。申命記 25:1には、裁判官は「正しいものを正しいとし、悪いものを悪いとしなければならない」とあります。ローマ8:33,34は次のように問いかけています、「神様がご自分のものとして選ばれた私たちを、あえて訴えるのは誰ですか?神様ですか?とんでもない。神様は、私たちを赦しご自分と正しく関係づけて下さった方ではありませんか」(リビング訳)。箴言17:15、マタイ12:37参照。
 義認の意味を思い出すのに一番よい情景は、ちょうど裁判官が法廷で木槌を鳴らして「無罪!」と宣言する様です。私たちは本当は有罪なのですが、裁判官である神が、あたかも私たちが無罪であるかのように扱われるのです(ローマ4:5)。義認の根底にあるのは次のこと、つまり私たちに不利益な判決がそれ以上なされることはありえないということです。罰金や処罰、責任追求や怒りからも、すべて解放されるのです。「こういうわけで、今やキリスト・イエスにあるものは罪に定められることがない」(ローマ8:1)。私たちは罪びとなのですが、神が私たちをあたかも罪を犯したことがなかったかのように扱って下さるのです。(「私は義とされた」という意味は、神が私を罪など一度も犯したことがないかのように扱われるということです。)
 明らかに、罪びとにとってこれほどせっぱつまって必要であり、また与えられて嬉しいものは他にありません。

U. 義認の根拠


 次の主題は義認の根拠は何かということです。裁判官が誰かを「無罪」と宣言するとき、どのような根拠にもとずいてそのような決定に至るのでしょうか。そうした無罪判決を正しいものとする考慮事項は何なのでしょうか。裁判官は正当な理由がなければ、そのようなことはしないのです。
 そのような決定がなされ得るひとつの場合としては、その人が罪を犯していないときがあります。もしその人が犯罪を犯していない事が証拠によって分かったなら、その人の行いを根拠として無罪の判断を下さなければなりません。これと同じように、もしある人が100%善良ないし無実であるなら、その人は義と認められることができるでしょう。その人が義認される根拠はその人自身の正しさと行いにあります。
 ただ、私たちの場合、神はこのやり方をとることができません。なぜなら、私たちはみな罪を犯してしまっているからです。このため、自分の行いを根拠として義と認められることは誰にも不可能なのです。ローマ3:19,20参照。私たちの行いはただもう自分達が罪びとであって、処罰に価するものでしかないということを明らかにするだけです。それならば、神はどのようにして科(とが)ある罪びとを直視しながら「無罪」と言えるのでしょうか。神に「不信心な者を義とする」ことができるのでしょうか。ローマ4:5参照。
 感謝すべきことに、実はそれは可能なのです。ただその根拠はただひとつ、キリストの流された血です(ローマ5:9)。神は「無罪」と宣言して、私たちをあたかも一度も罪を犯したことがないかのように取り扱うことがおできになりますが、それはただにキリストが既に介入して下さって私たちの身代わりになって下さったためです。キリストが私たちに代わって有罪とされ、私たちの故に罰をその身に受けられました。十字架につかれることによって、私たちと神の怒りという燃やしつくす火の間にご自身を置かれたのでした。彼の死は神の義と律法の要請を充たすものでした。
 私たちがイエス・キリストのもとに来るということは、私たちの負うべきものを既に支払った方のもとに来るということです。ですから、私たちがキリストにすがっているのをご覧になった神が言われます、「ああ、あなたはキリストと一緒なのか。それなら通ってよろしい。なぜなら、キリストがあなたに代わって既にあなたの受けるべき執行を終えたのだから。本件は終了!」これがローマ8:1に言うことです:「こういうわけで、今やキリスト・イエスにあるものは罪に定められることがない。」
 このようにして「御子イエスの血が、全ての罪から私たちをきよめるのである」(1ヨハネ1:7)。私たちの罪は洗い落とされ(使徒22:16)、帳簿から抹消されて、もはや追求されることはありません。私たちがキリストとその血のもとにあるとき、ある意味で、神は私たちの罪に目を留める必要がありません。罪はその視野から消え去っているのです。
 赤いセロファンを使った説明を思い出す人もいるでしょう。白い紙の上に人の姿が黒いインクで書かれているのを思い描いて下さい。その人の上には赤いインクで落書きがしてあります。この絵の上に赤いセロファンを重ねると、赤い汚れは見えなくなってしまいます。ちょうどこのように、私たちは神の目には「キリストの血によって義とされた」のです。
 したがって、私たちが義とされた根拠はキリストの義そのものによるのであって、私たち自身の義(良い行い)によるのではありません。義とは律法の要求するものが満たされたということを意味します。それには命令に従うか、もしくは罰に苦しむかの二つの道があります。イエスは両方を行ったのですが、私たちを義としたのは、そのうちの後者の方です。彼の「一人の義なる行為」(ローマ5:18)-- つまり、彼の贖いの死 -- が私たちを義とし私たちを律法による処罰から解放したのです。
 「神の義」とはこのことであって、福音の本質であり、また私たちの希望の根拠なのです(ローマ1:17; 3:21,22; 10:3; 2コリント5:21; ピリピ3:9)。 これが私たちの汚れた衣(イザヤ64:6)をおおうために神が下さる「義の上衣」(イザヤ61:10)です。賛美歌280番に「わが身の望みはただ主にかかれり、主イエスのほかにはよるべき方なし」と歌われているとおりです。 
 「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義とされる」(ローマ3:24)ということの意味するところです。ここにおいて、律法と恵みの違いは最もはっきりしています。律法のもとで人は自分の行いによってしか義とされ得ませんでした。つまり、100%良くなければ救われなかったのです。しかし、恵みのもとでは、私たちはキリストの行いに基づいて義とされます。キリストの行いが私たちを100%赦された者とするのです。

V. 義認の手段


 罪びとはどのようにすれば義とされるのでしょうか。義認を受けるための手段は何なのでしょうか。前の章でみたように、恵みの方式にあっては、義認を受けるための唯一の手段はイエス・キリストへの信仰でした。パウロは言っています、「私たちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ローマ3:28)。ローマ5:1、ガラテヤ2:16も参照して下さい。パウロは義認の手段としての信仰を強調していますし、同様に行いによって義とされるのではないということも強調しています。ローマ3:28で使われている「のではなく(apart from)」という前置詞の示すものは、私たちが義とされるのは私たちの行いの善し悪しを考慮してのことなのではなく、信仰によるのだということです。 ローマ4:6-8も参照。
 そうとすれば、信仰を持っている限り、従おうと従うまいと構わないという意味でしょうか。いいえ、そんなことは絶対にありません。聖書がはっきり言っていることは、義とされる信仰とは愛によって働く信仰だということです(ガラテヤ5:6)。信仰は常に私たちを従順に導きます。私たちは「良い行いをするように」キリスト・イエスにあって造られたのです(エペソ2:10)。
 ヤコブ2:24もこう言っています、「人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない」。パウロとヤコブの違いは強調点の置きどころです。パウロははっきり言っています:義認に唯一直接に結びついているのは信仰だと。もちろん、信仰には常に従順が伴います。ローマ6:1-19を参照して下さい。

(Rom.6:1-19)

01 では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。 02 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。 03 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 04 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 05 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。 06 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 07 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 08 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。 09 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。 10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。 11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。 12 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、 13 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。 14 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。 15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。 16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。 17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、 18 罪から解放され、義の僕となった。 19 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。

ヤコブは単に同じことを強調して次のように言っているのです。つまり、ある意味で私たちは行いによって義と認められるが、それは行いが間接的に義認と結びついているからである。というのも、義と認められる信仰は行動を伴う信仰だからである、と。そうでなければ、誰にいったい信仰のある無しがわかるでしょうか(ヤコブ2:18)。
 以上を要約すると次のようになります:私たちが義とされるのは信仰と行いによるのではない(パウロ)。同様に行いのない信仰によって義とされるのでもない(ヤコブ)。むしろ、私たちが義とされるのは、行う信仰によるのである(パウロとヤコブ)。

W. 義認の時


 前にも述べましたが、信仰によって義とされるということは、信仰を持ったらその時ただちに義とされるということではありません。手段と時とは区別すべき二つの事柄です。私たちが義と認められるはじめの時として、神はクリスチャンのバプテスマという特定の時を備えておられます。バプテスマの時に信仰によって、ちょうど服を着るようにキリスト(義の衣)を私たちは着るのです(ガラテヤ3:26,27)。 私たちは罪の赦しのバプテスマを受け(使徒2:38)、キリストに死に、キリストと共に葬られますが、それはバプテスマの時になのです(コロサイ2:12; ローマ6:4-6)。
 しかし、信仰による義認という聖書の中心点が強調するものは、私たちが最初に受けるものの上にではなく、私たちがそれを保持するあり方の上にあります。私たちはバプテスマの時から引き続き義とされ、イエスの血による贖いに心から信頼し続ける限り、クリスチャン生活を通してずっと義とされるのです。バプテスマの時に私たちは義と認められた人間になります。そして信仰によって義と認められる恵みの状態が続きます(ローマ5:1,2)。ローマ8:1; エペソ3:17; 1ペテロ1:5も参照。
 ある一部の人々は、バプテスマを単に私たちが過去の罪の赦しを受けるときだと考えています。そのように考えてしまうと、バプテスマによる神の赦しのわざが継続的なものだという事実をあいまいにしてしまいます。事は単に過去の罪を洗い流すだけではなく、義の衣を与えられてバプテスマの後もそれが私たちを包み続けるということなのです(ガラテヤ3:27)。バプテスマの時には罪だけでなく、人間が赦されます。そして義認による赦しは、たとえ私たちが罪を犯す事があっても絶えず持続するものです。背教や恵みから離れて行くことは可能ですが。ひとつの罪を犯したとか、あるいはたくさん罪を犯したからといってそれが必ずしも背教ということになるとは限りません(信仰の内に歩みたいと思う限り、罪を犯す度に心底からの悔い改めの気持ちが当然伴うはずです。)背教というのは次のような時に起こってきます:信仰を失うとき;イエスに信頼することをやめたとき;彼の赦しに確信を持たなくなったとき;彼を主としなくなって、従おうとしなくなったとき。
 ちょうどこのことを問いかけた聖歌があります:「十字架の血潮で、あなたの罪、あやまちは始末されてあるか。神なるキリスト・イエスを信じて救われたか。イエスの十字架をばいつも見て暮らしておるか。」(聖歌417番)。[=十字架のイエスを見るたびに、赦された安らぎを覚えるか(原詞)]。
そうであれば、あなたは罪から、責めから、また地獄への思い悩みから解放されています。そして、神に仕えることに心を集中し、愛のみによって彼に従うことができるようにと解放されています。

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