■2021年12月 『折が良くても悪くても』
神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。(テモテへの手紙二 4章1~2節)
新規感染者数が五十人を下回り続けています。専門家は「この良い状況を長続きさせることが重要」と述べていました。礼拝は、頌栄を含めて三曲の讃美歌をフルコーラスで歌っています。水曜日と木曜日に行う祈祷会を一年八か月ぶりに再開しました。少しずつ、元の営みが戻ってきています。しかし、「戻る」ということがあるのでしょうか・・・。
確かに従来の営みが回復しています。けれども、時間を元に戻すことはできません。私たちは「コロナ禍」と呼ばれる現実を経験しました。今もその途中です。過ぎた時間の中で、人命をはじめとして、数えきれない尊いものが失われました。実際、私たちの日常は変わってきています。受験や学生の進路、社会人の働き方、人付き合いの方法。起きている様々な変化を無視することはできません。
素朴に、今教会に何が求められているのかと思います。試練の神学的な解釈、将来に対する希望の提示、現状に見合った体制の変化、これらかもしれません。当然必要なことです。しかし、もっと大切なことがあると思います。変化する時代に対応する教会がよって立つ、決して変わらない霊的な土台です。
冒頭に掲げたテモテ書は次のように述べています。「キリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」これは勧めではありません。使徒からの命令です。主が来臨する終わりの日を念頭に置きつつ、その日が来るまで、福音を宣べ伝える一事に励むよう厳かに命令を与えているのです。
教会の使命は、礼拝をささげ、福音を宣べ伝え、祈ることです。神と人への愛をもってこれを行います。世に対して教会は強いものではありません。むしろ弱いのです。しかし、弱さの中に恵みの力が宿ることを知っています。これを信頼して、折が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えて行きます。私たちは、明確に、ここに立ちたいと考えるのです。
今がどのような時なのかさえ、良く分かりません。誰もが手探りでしょう。しかし私たちは福音を知っています。託された使命を、皆で力を合わせて果たしていきたいのです。
■2021年11月 『キリストに出会う』
若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコによる福音書
16章6~7節)
教会の暦では、十一月の第一主日を「聖徒の日」と定めています。亡くなった方々を記念する日です。冒頭に掲げた聖書は、イエスが死から復活した日曜日の朝の出来事を伝えています。初めに出来事を振り返りましょう。
マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ、女性の弟子たちは朝一番で墓を訪れました。イエスの遺体に香油を塗るためです。しかし、そこに遺体はありません。一人の若者がおりました。彼は告げます。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」示したのは空虚な墓穴です。イエスは復活を遂げました。空の墓は、死が空しくなったことを示すものです。若者は言葉を続けます。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」示されたのは空の墓だけではありません。「復活したイエスとお目にかかれる」この約束が与えられるのです。
愛する者たちを送ってきました。私たちは、主の復活を告げる御言葉を杖として、厳しい現実を歩んできたのです。そして、ただ「信仰をもって頑張って来た」と言うのではありません。キリストと出会う約束が与えられています。そして私たちは、現に主イエスと出会い、何度も出会い続けてきたはずです。
肉の目で見たわけではありません。触って確かめたわけでもない。けれども、信じられるのです。「大丈夫だ」「主を信頼して生きて行こう」理屈抜きで信じることが出来ます。愛する者を送る悲嘆の中にあっても、もう一度、生きる勇気が湧いてきました。キリストと出会うとはこういうことです。注意したいのは「あなたがたより先に」と述べられている点です。主が私たちの行く道の先で待っています。出会いは、私たちの信仰の熱心さに比例するわけではありません。悲しみや嘆き、不安や不信仰を抱える私たちの歩みの先で、主キリストが待っているのです。
墓は空です。死に勝利した方が待っています。心を高くして共々に歩んでいきましょう。
■2021年10月 『わたしは宣教する』
イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(マルコによる福音書 1章
28節)
9月30日(木)をもって、四回目の緊急事態宣言が解除される予定です。発出されたのは7月12日(月)でした。この間教会は11回の主日礼拝をそれぞれのところでささげることになりました。我慢の時でした。9月22日現在、国内の二回目ワクチン接種率は五五・一パーセント。東京都は五四・六パーセントです。11月中には、希望者全員が二回目の接種を受けられる見通しと言うことです。
感染症はまだ収束していません。同時に状況は変化しています。役員会はこれを踏まえて、次に記す二つを行うことにしました。
①礼拝のライブ配信を行う
10月3日(日)より、Zoomを用いて主日礼拝を生配信します。対象は、教会員と希望する求道者の方々です。この計画は、今後緊急事態宣言が発出された場合や、様々な事情によって教会へ来難くなっている方々がいることを考えて行うものです。したがってこれからは、原則的に礼拝堂でささげる主日礼拝を中止することはありません。
②緊急事態宣言が発出された場合の礼拝
次のように人数を制限して行います。教会員を世田谷区に在住している人と、世田谷区以外に在住している人の二つのグループに分けます(だいたい同じ数になります)。各グループは、交互に(隔週で)礼拝に出席します。
感染症は身体に関わることです。これからどうなるのか、まだ分かりません。不測の事態が生じた場合は適宜対応していきます。
共に集まれなくなって、二か月半余りが過ぎています。この間、教会への問い合わせがあり、道を求めて尋ねて来る人がいました。礼拝の席を示すことができないのは辛いことでした。神学の世界に「ミシオ・デイ」と言う言葉があります。「神の宣教」と訳します。伝道の主体は神であり、我々は主の働きに参与するという考え方です。過ぎた日々を振り返って「伝道するのは主、キリストが私たちに先立っている。」このことを実感するのです。感染症に苦しむ日々はあっても、それで神の宣教が滞るわけではありません。「わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」この御言葉の後に弟子たちは従いました。私たちも同じです。感染症との闘いはまだまだ続くでしょう。知恵を集めることが必要です。そして、先立つのは主キリスト。主の働きに参与して福音伝道に仕えていきましょう。
■2021年09月 『教会の土台』
シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。(マタイによる福音書 16章
16~18節)
当教会は、一九四三年九月四日に伝道を開始しました。場所は代田一丁目。牧師館を建て、二部屋を集会所として使用しました。この建物は一九四五年五月に戦災によって焼失しています。以後、教会は江戸川区小岩に移りました。一年を経て調布町上石原に移り、さらに一九五〇年に代田三丁目に移転して、最初の礼拝堂を献堂しています。
資料を読んでいて目に付くのは、「定期集会を開始」この言葉です。戦中戦後の混乱期に教会は転々としました。そしてどこの地に移っても、礼拝をささげました。聖書の言葉を聴き、祈りをささげて生きてきた。そして教会は、今年の九月に創立七八周年を迎えます。
現在、私たちは、共に集まって礼拝をささげることが出来ません。とても辛いことです。そして先達たちを思えば、焼夷弾が落ちて来る現実を、信仰をもって生き抜きました。私たちもまた、聖書の言葉を聴き、祈りつつ、この時を生き抜いていきたいと思うのです。
冒頭に掲げた聖書は、ペトロがイエスに対する信仰を言い表すところです。「あなたはメシア、生ける神の子です」。この告白を受け取って主イエスは、ペトロの上に教会を建てると言いました。信仰告白が〞教会のよって立つ土台である〟という意味です。
旧約聖書は、来るべきメシアを指し示します。新約聖書は、約束のメシアがイエスであることを指し示します。私たちは、イエスが世に来た神の子、キリスト(救い主)であることを信じます。この信仰に立って洗礼を受け、信仰共同体である教会を形作るのです。そして重要なのは次の言葉です。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」私たちの信仰は神さまからいただく賜物です。信仰の発信源は私自身ではなく、主です。だから確かなのです。
世の中の行く先が見えません。不安が募ります。信仰の倦む時があるでしょう。原点に返るのです。〞イエスはキリスト神の御子〟ここに立ち帰る。ひとつの信仰告白に立って希望を抱き、共々に前進して行きましょう。
■2021年08月 『今を生きよう』
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。
(詩一二一編 1~2節)
四度目の緊急事態宣言が発出されています。宣言が出ている間は、礼拝堂での礼拝と教会学校の活動を中止しています。共に集まることが出来ません。大きな忍耐の時が続いています。私たちはそれぞれ聖霊をいただいています。言葉を換えれば、キリストのピース(部分)をいただいているのです。部分が集まって全体を現します。主の日にキリスト者が集まって礼拝をささげるとき、見えざる主がお立ちになります。共に集まって、そこに現れるひとりの主と交わることが出来ないから、私たちは辛くなるのです。
七月一七日現在、東京都の六五歳以上の第一回目ワクチン接種者は七九・四二パーセントです(NHK特設サイト新型コロナウイルス)。政府は七月末までに希望する高齢者への接種を終える目標を達成できる見通しであると述べています。以上を考えれば、油断はできませんが、感染症に対する対応も変化していくことになると思います。安全を確保したうえで、私たちの信仰生活を守り、世に対する伝道の使命を果たしていく道を見つけていきたいと考えています。
詩一二一編は「巡礼歌集」の中のひとつです。巡礼者は神殿の境内におります。これから帰路に着きます。このとき巡礼者は彼方に見える山々を仰ぎます。「越えていくことが出来るだろうか・・・。」険しい山々を避けて通ることはできません。そして彼は、心の声を聴くのです。「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」越えられるか、越えられないかは分からない。けれども、助けは来る。高くそびえ立つ山々はあってもそれを造ったのは主。主が、わたしを助けてくださる。
どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように。
(詩一二一編 3節)
祭司が与える祝福の言葉を身に受けて、自分の道を歩み始めるのです。
試練の山々があります。私たちはその途中にいます。山を越える日を心に思い描いて今を生きましょう。苦しい今を真正面から受け止めて、主と共にしっかりと歩んで行きたい。この歩みの向こうに喜びがあります。共に成長を認め、主に感謝をささげる日が来ます。
■2021年07月 『 聖 餐 』
それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。(ルカによる福音書
22章19~20節)
最後の晩餐の席上でイエスは、聖餐を制定されました。裂かれるパンは主の体を意味します。杯は流される血潮です。イエスは十字架の上で体を裂き、血を流しました。これによって人の罪は赦され、私たちは神の愛の中に帰ることが出来ます。聖餐は十字架の記念であり、復活を遂げたキリスト御自身をいただくものです。使徒パウロはこのような聖餐について次のように述べています。
わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。(コリントの信徒への手紙一
10章16~17節)
ひとつのパンを食べることによって私たちは、ひとつに結ばれます。福音の言葉を聴き信じて洗礼を受ける。そして主の食卓を囲み聖餐を分かち合う。ここで私たちは主の民となります。これが教会です。私たちキリスト信者の姿です。
最後に聖餐にあずかったのは、二〇二〇年三月一日のことです。以来、感染症のために聖餐の執行を控えてきました。役員会は、来る七月四日の主日礼拝で聖餐を行うことを予定しました。感染症が終息したわけではありません。これを踏まえて、安全対策を巡らせて執行することを決めました。聖餐は教会の中心であり、福音そのものを示すものだからです。具体的な安全対策としては、パンと杯はそれぞれ個包装されたものを用意します。どちらも、感染症対策として作られたものです。聖餐にあずかるのに先立って、陪餐者各自に小型の消毒液を用意します。手指消毒を行ってからパンと杯をいただきます。このような仕方で恵みの聖餐を共にいただきたいと願っています。
これから世の中がどのように変化していくのか、私たちには分かりません。不安は大きいです。しかし教会は、聖書に記された福音の言葉を聴き、聖餐を分かち合います。このようにして主と共に歩みます。さらにこの福音を、時が良くても悪くても宣べ伝えていきます。皆で力を合わせて伝えていきましょう。
■2021年06月 『人に成長を与える霊』
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、〞霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録
2章1~4節)
弟子たちの集まりに聖霊が降ります。すると彼らは知らないはずの外国語を話し始めました。出来事の背景にあるものは、創世記に記されているバベルの塔の物語です。
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。(創世記11章1~4節)
人々は高度な技術を手に入れました。天まで届く塔を建て、神をも追い抜こうと計画しました。ところがこの企ては挫折します。互いの言葉が通じなくなってしまったのです。原因はエゴです。神を畏れなくなったとき人は、隣人を重んじることがなくなりました。「俺が、俺が」の思いがぶつかって、互いの言葉が通じなくなったのです。
聖霊が降った弟子たちは知らない外国語を話し始めました。これは、「言葉の通じない現実を乗り越えた」という意味です。神さまを畏れず、隣人を大切にしないことが罪です。この結果人は孤独になります。聖霊の働きは、人に信仰を与え、隣人に対する温かい気持ちを回復させます。罪ある現実を克服して、互いの間に通じる言葉を生み出すのです。
「聖霊の働きって何ですか?」問われることがあります。働きの大きな一つは、「人を変える」ことだと思います。神さまを信じられなかった自分が、信じています。他人に関心のなかった私が、隣人の幸いのために祈っている。変えられることは成長が与えられることです。弟子たちは、一生の時間をかけて他者に通じる言葉を獲得していったのでしょう。私たちも同様です。神さまに問いつつ何が最善かを探します。目の前にいる隣人に心を開いて届く言葉を見つけていく。聖霊の働きによって、私たちに成長が与えられていきます。
■2021年05月 『来て、見なさい』
フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。(ヨハネによる福音書1章45~46節)
変異株による急激な感染拡大です。教会は、去る一八日の礼拝から、讃美歌を発声せず、心の中で歌うことにしました。主の祈りも司式者が代表して祈り、会衆は心の中で祈るようにしました。このような対応をする中で、四月二五日より五月一一日まで、「緊急事態宣言」が発出されました。発出中は、礼拝堂での礼拝と教会学校の活動を中止します。もとより他の集会もありません。礼拝については、教会のホームページから聴くことができます。土曜日に主日礼拝を録音し、日曜日の朝から聴けるようにしました。共に集まることはできませんが、録音を聴きつつ、それぞれのところで礼拝をささげましょう。互いを覚え、日本と世界を覚え、祈りをささげたいと思います。現在は通常の営みができません。皆さまのご理解とご協力をお願い致します。
感染症は人から人へ伝染します。そして福音も、人から人へと伝わります。人と人との交わりが制約されている今です。冒頭に掲げた御言葉が、印象深く思い出されました。
フィリポは、「キリストに出会った!」と述べています。ところがナタナエルは本気にしません。そこでフィリポは「来て、見なさい」と告げます。「千の言葉を聞くよりも、自分で会ってみればわかる」と言うのです。
フィリポの言葉は、本当にキリストと出会った人の言葉でしょう。本当に出会っているから、自分で説明しようとは思いません。ひたすらキリストを指し示すことになります。伝道とはこのようなものでしょう。理屈で人を説き伏せるのではありません。「来て、見なさい」そうすればわかるのです。
対話は控えなければなりません。しかしこのような時であればこそ、キリストを指し示したいと思います。福音に対して消極的な気持ちにはなりたくありません。あなたの中に宿る信仰、隣人に対する救いの願いが、大切な人にキリストを力強くもたらすのです。
この後ナタナエルは主と出会います。私たちの祈り、忍耐と明日への希望が実を結ぶ日は必ず来ます。この日を信じて今日、主キリストをはっきり示していきたいと思うのです。
■2021年04月 『主の恵みに生かされて』
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイによる福音書
28章16~20節)
この日、弟子たちは山の上で復活の主イエスと出会います。一同は礼拝をささげます。ところが、中には疑う者もいた。復活の主を見ながら疑うのであれば、この先の言葉はなくなってしまいます。しかし主は、このような弟子たちに自ら近づき、全世界に対する伝道命令を与えます。弟子たちは命令に応えました。すると、不思議なことが起こります。ボンヤリしていた弟子たちは力強い使徒になっていきます。殉教の死に至るまで、全世界に福音を宣べ伝えていくのです。
緊急事態宣言が解除されました。一月三日に礼拝堂で礼拝をささげて以来、十一週、私たちは共に集まることができませんでした。
自粛期間中、私たちは何を考えていたのでしょう。共通した思いの一つは、「主に結ばれた隣人が必要」ということではないかと思います。素朴に、「教会で、皆で礼拝をささげたい」と、思ったはずです。私たちが聖霊によって結ばれ、キリストという一つの体を形作っているとはこのようなことです。それは、時に苦痛を覚えるほど、共に集まって礼拝をささげたくなるのです。
私たちは信仰と共に不信仰を抱えています。主イエスを見ながら疑いを抱く弟子と同じ有様です。しかし主は、そのような私たちを召し、自ら近づいてくださいます。私たちの信仰の根拠は、私たち自身にあるのではありません。主が召してくださいました。主が、私たちを愛して放さないのです。それだけではありません。主は弟子たちに伝道命令を与えました。これは、今日の弟子である、私たちに与えられたものと捉えることができます。
共に礼拝をささげられることに感謝しましょう。そして、恵みに応えて伝道命令を果たしたいと思います。信者の獲得をするのではありません。福音を生きて主キリストを世に証しするのです。このとき私たちは、力強く、復活の主と共に生きることになります。
■2021年03月 『低きに立つ神』
シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(ルカによる福音書
2章34~35節)
シメオンが告げる預言の言葉です。「あなた自身も剣で・・・。」これはイエスの十字架の死を示します。母であるマリアがこれを見届けることになる。それはまさに、剣で心を刺し貫かれることです。マリアとヨセフは幼子の誕生を感謝するために神殿に来ました。その境内で告げられた言葉です。主イエスは、十字架につくために世に来たのです。十字架について人々の罪を償い、もう一度、神さまの愛の中に立ち帰らせるために、主イエスは世に来たのです。
昔々ある所にひとりの男がいました。彼はイエスさまのことが大好きになりました。ぜひ一度会ってみたいと思った。神さまは天にいると言う。そこで男は町で一番高い煙突へ上りました。そして天を見上げて大声で叫んだ。「イエスさまー。」すると下から声がありました。「おーい、ここだー。」
青年時代に聴いたお話です。そして、意味があります。救い主は高い所にいない。私たちと同じ所にいる、と言うのです。
ルカによる福音書では、主イエスは家畜小屋でお生まれになりました。人並以下の場所です。世に現れたときこのお方は、いつも、弱い者、貧しい者、病んでいる者、過ちを犯した者、絶望の中で打ちひしがれている者の傍らに立ちました。いいえ。彼らよりももっと低いところに立ちました。木の上にいる徴税人のザアカイを、彼の足元に立って呼びかけたのです。そしてこのお方は、最後に十字架について亡くなりました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」大罪を犯した者に救いを約束して、亡くなったのです。
私たちはどこにキリストを探しているのでしょう。聖書の中、聖餐の中、礼拝の中。そのとおりです。そして礼拝に現臨する主は、あなたの日常生活の中にいるのです。心の願いを受けとめ、ため息を受けとめ、一日の努力を労わるようにあなたの隣にいるのです。
シメオンの預言は厳しい。しかしこの言葉は祝福の中で語られています。十字架につく主イエスは、復活の栄光に輝く救い主です。私たちは、このお方と共に歩んでいるのです。
■2021年02月 『愛し合いなさい』
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(ヨハネによる福音書 15章12節)
神学生のころです。教室で先生が学生に向かって話しました。「人間の悩みの九十九パーセントは、人間関係だ。」と。心に残る言葉でした。
昨年の四月以来、二回目の緊急事態宣言が発令されています。マスク着用と手指消毒、三密回避は常識。この上で、出来るだけ人との接触を避ける。十分に理解できます。そして同時に、これまでのように他者と関われないことがこれほどのストレスになるとは、思ってもみませんでした。人は言葉のみで語るものではありません。牧師の前に一人の人が座ったとき、その人は全身でメッセージを語っています。表情、目線、しぐさ、ため息・・・。意識、無意識を問わずに発信される情報の一つ一つを受け止めます。やがて言葉に出来ない問題点が明らかになって共有することが出来れば、その人にとっても牧師にとっても、大きな幸いになります。現在は、このような人との関わりが出来ないのです。
人間関係は尽きない悩みです。私たちにとって最大の課題でしょう。これと共に人は、他者との関わりからたくさんの喜びと力をもらっているのだと思います。それは〞生きがい〟と呼べるほど不可欠で、大切なものです。
主イエスは、「互いに愛し合いなさい」と言います。語られる言葉自体は簡単かもしれません。しかしこの言葉を記すヨハネの教会には、とても厳しい現実がありました。時代は九十年代。教会はユダヤ教からの迫害を受けていました。そしてヨハネの教会は、迫害に耐えきれなかったのです。信仰を捨てる者がいます。仲間を裏切る者もいました。キリストを信じる自分たちは、強くもなく、立派な者でもなかったのです。そして福音書を書いたヨハネは、ボロボロの現実を承知して、なお私たちを愛しているキリストを知りました。どん底に落ちたとき、何も出来なくなったときに、主キリストと出会ったのです。
述べられている「愛」は、甘く易しい愛ではありません。人間の罪と弱さを知り、それでも愛し抜く、神の愛です。十字架の上から響いてくる聖なる愛です。
今更のように人は独りでは生きられないことを覚えます。互いに活かし合って生きています。そうであれば、主から頂いている尊い愛を活かしましょう。小さな言葉や行い、そこに愛が宿るとき、互いを豊かに活かします。
■2021年01月 『来年の今ごろ』
主はアブラハムに言われた。
「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」(創世記
18章13~14節)
アブラハムとサラには男子の誕生が約束されていました。しかしこの約束は長く果たされませんでした。そして神さまは、旅人に姿を変えて夫婦の許を訪れます。「来年の今ごろ、男の子が誕生している」ことを告げます。しかしサラは信じられません。現実味がないどころか滑稽なことに聞こえて思わず「プッ」と吹き出してしまったのです。
飛躍しますが、私は野にいる羊飼いたちのことを思い出します。羊飼いたちはとても貧しい人々です。社会的な立場もありません。神さまを信じていたでしょう。けれども現実は厳しく、幸いなど、自分たちとは何の関係もないと思っていたでしょう。そしてこのような彼らに突然、天使が訪れて救い主の誕生を告げたのです。
「来年のことを言うと鬼が笑う」と申します。鬼が笑うのではありません。人間が笑うのです。私たちはこれを不信仰と言うことはできません。昨年の今ごろ、今日の世界のありさまをだれが想像したでしょう。現実は捉え難く、困難に満ちています。そうであれば、明日を望むよりも用心深く冷笑する方が心は安全でしょう。しかし神さまは、そういう私たちに対して救いの言葉を告げるのです。「来年の今ごろ、必ず男の子が生まれている」と。
アブラハム夫婦も羊飼いたちも、「無理」の中に暮らしていました。そして神さまが、人間的には不可能に見える現実を打ち破って行かれたのです。
信仰に導かれた最初の日を思い起こしてみましょう。私たちもたくさんの限界を自分自身に課していたのではないでしょうか。「とても洗礼を受けるなどは無理」考えていた日もあったと思います。しかし、不思議にも障壁は除かれ、今日に至っています。
キリストは世に来られました。私たちは今日もこのお方を信じています。そうであれば、主に結ばれて明日の日を望みたいと思うのです。主イエスは言いました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この約束を告げるキリストを信頼して、私たちの不可能と冷笑が打ち破られていく恵みの明日を、共々に望んでいきたいと思うのです。