今月の一言(2017年)

■2017年12月 『部屋は空いていますか』

 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
(ルカによる福音書 2章6~7節)

 ガリラヤの町ナザレから、ユダヤの町ベツレヘムへ。距離は直線にして百キロ余り。実際の道のりは百四十キロ程度と言われています。身重の体を庇いながらの旅です。マリアとヨセフは何日かかってたどり着いたのでしょう。到着したベツレヘムの町は、住民登録をする人々でごった返していました。宿屋はどこもいっぱい。臨月の身を示しても助けてくれる人はいませんでした。そして二人が宿った先は、人並み以下の家畜小屋でした。

 多くの人が忙しい毎日を過ごしています。維持しなければならない暮らしがあります。果たさなければならない責任の数々がある。学校で高校三年生に聖書を教えています。彼女たちは受験生。中には、緊張する現実に追い詰められて悲壮感を漂わせている人もいます。私たちも同様です。日々の予定に追われています。〝充実〟とは違うものでしょう。心の奥には拭いきれない不安があります。自分を空しくする闇に追いつかれないように、こわばる心でアクセルを踏み込んでいるようにさえ思えるのです。
 マリアとヨセフに宿る部屋はありませんでした。人々はキリストを迎えません。忙しくて、余裕がなくて、神さまどころではない。「忙しいのだ。どこの部屋もいっぱいだ。他をあたってくれ。」この有様は私たちの姿でしょう。救い主を追い払ってしまう。心の部屋がふさがっているのです。
 しかしキリストは、自分を受け入れない人々の許を去ったのではありません。このお方は、ベツレヘムの町の家畜小屋の中で産まれました。自分を追い出す人々の間に宿ったのです。そして主は、今も私たちの間に宿っています。

 ツリーもイルミネーションも、ケーキもいりません。粗末な家畜小屋に行ってキリストを拝みたい。救い主を拒んでも、不利益を被ることはありません。受け入れても、良いことが続くわけではないでしょう。しかし、キリストを拝んでこの方を受け入れるとき人生は変わります。それは、永遠に続く神の愛に抱かれた人生に変わるのです。私たちは、この一つを尊くしたいのです。


■2017年11月 『悔い改めと出会い―宗教改革五〇〇周年』

 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
(ローマの信徒への手紙 1章17節)

 一五〇五年、マルティン・ルターは、厳しい戒律で知られたアウグスティヌス修道会へ入会します。二一歳の時でした。 
彼は熱心な修道士でした。祈りをささげ、自らの罪を戒め、善行と苦行を実践し、聖書を学んでいました。しかし、心に平安はありません。当時を振り返って言います。「神が獄吏に見えていた」神さまが、自分を捕らえ処刑場に引き出す牢番に見えていたというのです。
一五一一年ごろのことです。彼はウィッテンベルク大学の図書館にいました。冒頭に掲げた聖書箇所を読んでいた時です。突然光を受けたように心の目が開かれます。〝神の義は信仰を通して実現される〟「神の義」とは、神さまに罪を赦され受け入れられることです。つまり、救われること。
ルターにとって救いは自分の問題でした。「救われるために私はどうすればいいのか」を考えて、出来得る限りの実践をしていたのです。ところがロマ書を読んでそうではないことに気づきました。救いは自分の問題ではなく、神の問題だったのです。如何ともし難い現実を抱えた私たちを救うために、神がキリストを十字架に渡しました。主が罪を引き受けて死んだので、人の罪は赦されます。人はこのキリストを信じることによって救われる。ルターは、神の業である福音に心の目が開かれたのです。
聖書を読んでいた図書館が塔の中にあったので、以上を「塔の体験」と呼びます。ルターの霊的な突破点となるものです。

ルターの信仰の核心は、十字架のキリストと出会うことです。彼は心の中で出会ったのではありません。聖書の言葉によって心の目が開かれ、私の心の外に立つ十字架のキリストと出会ったのです。この出会いが、ルターと教会に新しく霊的な命をもたらして行きます。
カトリック司祭が言いました。「宗教改革は恵みであった」と。すべての教会のために与えられた恵みであったというのです。対立の時代ではありません。相互理解と共生の時代です。私たちに求められているのは、悔い改めと出会い。十字架を仰いで、神の業である福音を受け入れることです。


■2017年10月 『教会の日常』

 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベタイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
(マタイによる福音書 10章2~4節)

 娘が高校を卒業したときに聞きました。
「何が一番楽しかった?」
 しばらく考えて、
「日常かなぁー。」と言いました。
私は想像していなかった答えに胸を突かれて、言葉が出なくなってしまいました。心の中で「日常が一番楽しければ、言うことはないではないか」思ったところです。

教会の日常は、主の日ごとの礼拝が普通にささげられていることです。礼拝がささげられるためには準備が必要です。教会に繋がる一人一人が、一週間をかけて祈ります。司式者、説教者、奏楽者、礼拝当番。さらには、お花を活ける人、週報を印刷する人、献金を集計する人。役員会も各種委員会もみな同じです。教会の営みはすべて、普通に礼拝をささげるためにあります。そして当たり前に礼拝をささげる営みが持続するとき、教会は豊かなものになります。

冒頭に掲げたのは〝使徒の表〟と呼ばれるところです。「徴税人のマタイ」。彼は民からローマ帝国へ納める税金を取り立てる人でした。立場を利用して、不正な利益も得ていたでしょう。片や「熱心党のシモン」。熱心党とは国粋主義の政治党派です。テロ活動も厭いません。党員は懐中に短剣をしのばせていたと言います。ローマの庇護のもとに生きていたマタイと、ユダヤ主義者のシモン。互いに敵味方の間柄です。しかし彼らは兄弟になりました。イエスの愛を受け取ることによって弟子となり、かつての立場を乗り越えたのです。
教会は多様な人々の集まりです。そして一人一人が主キリストに愛され、福音の救いに招かれています。重要なのは、主を仰ぐことです。頂いた恵みを数え、生かされていることを覚えることです。ここで互いの違いを乗り越えることができます。違いは多様性の豊かさへと変えられるでしょう。
私たち一人一人が、教会の日常を作る者たちです。主イエスを仰ぎ、違いを持つ互いを大切にしていきましょう。平凡な教会の日常こそ、主から頂く恵みの力なのです。


■2017年9月 『共にいる主キリスト』

 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
(マタイによる福音書 28章16~20節)

 9月第1主日は、教会創立記念礼拝。今年は74周年を迎えます。現在、日本の教会は厳しい伝道不振の中にいます。私たちの教会も例外ではありません。礼拝出席者の減少、それに伴う経済的なピンチがあります。これを受け止め、伝道に取り組み、力を合せているところです。同時に、思い立ったように伝道を始めているのではありません。梅ヶ丘教会は、創立以来今日まで、伝道を続けている教会です。中断したことは一度もありません。

 冒頭に掲げた御言葉は〃大宣教命令〃と呼ばれているところです。「疑う者もいた」この言葉が気になります。復活のイエスを目の当たりにしながら、使徒たちの中には疑う者もいました。熱心な者がおり、疑い迷う者もいたのです。そして主イエスは、そのような弟子たちに近づき福音宣教を託します。
 今日の弟子は私たちです。私たちもまた、完全な信仰を持っているわけではありません。信仰と共に、疑いや迷い、呟きを抱えています。そして主は、このような私たちに近づき、尊い伝道の使命を託すのです。

 弱いことは良いことです。欠けがあることは、幸いなことです。人間の弱さを知らなくて、なんで伝道が出来るでしょう。欠けがあるから主の恵みは満ち溢れるのです。そして、自分の欠けを見つめてはいけません。弱さを嘆くことはやめましょう。二つの視線でものを見ることは出来ません。自己に拘って自分自身を見つめるとき、人は主を愛することをやめてしまいます。私たちの弱さをいたわり、欠けを埋めてくださるのが主キリストであれば、私たちはこのお方を仰ぎ見る。御言葉を聞いて、従うのです。
 これまで続けてきたように、これからも、福音を宣べ伝えましょう。聖書の言葉を説き明かし復活の主を指し示します。皆で祈りつつ前進するのです。伝道は必ず実を結びます。洗礼を受けた私たちが、その生き証人です。


■2017年8月 『託された祈り』

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネによる福音書 3章16節)

 8月4日(金)午後7時より、西南支区主催第30回「平和と核廃絶を祈るつどい」が、当教会を会場にして行われます。
 83年3月、梅ヶ丘教会では植松英二牧師と有志の教会員総勢17人で「広島原爆ツアー」を行っています。被爆地を訪れ学ぶ旅です。これが大きなきっかけでした。ツアーに参加した早川亨さんは、85年3月の西南支区総会で核問題を研究する会の設立を提案しました。これを受けて翌86年1月に「西南支区核問題を考える会」が発足し、早川さんが会長に就任しています。そして87年8月に、第1回「核兵器廃絶を求め平和を祈る集い」が中渋谷教会を会場にして開催されました。この回から数えて今年は、第30回を迎えるわけです。

 「広島原爆ツアー」は、当時の教会に大きなインパクトを与えました。「1発の爆弾が直径2キロ以内に住む12万人の人を一瞬の内に殺してしまった」早川さんは慄くように語っておられました。ツアーの後、私自身も参加したのですが、平川剛志さんのリーダーシップで、「原爆の図」で有名な丸木美術館へ見学に行きました。生きた人間が焼かれ、皮膚が垂れ下がったまま呆然と歩いている絵画がいくつも続きました。「平和と核廃絶を祈るつどい」は、牧師と教会員の平和を求める願いから始まりました。この願いが支区全体に広がって、30年間祈り続けられています。

 現代はとても繊細な時代です。過剰なほどに他人との距離を測り言葉を選びます。容易に内面は見せません。傷つきたくないのです。心は不安と劣等感にさいなまれているでしょう。誰もが孤独を抱え日々の務めに追われています。そこに平和への祈りはありません。しかし、この現実の中で神さまの愛を知るとき、私たちは他者との共生を願って祈ることが出来ます。無視するのではない。殺し合うのではありません。互いに生かし合うために祈ることが出来るのです。
 先達者たちの平和への願いは、主キリストの十字架によって現された神さまの愛に押し出されたものです。私たちは神さまに愛されています。福音を知る者たちです。ささげられてきた平和への祈りを受継ぎたいと思います。核兵器のない世界を願い、隣人と共に生きる日々に向かって、前進して行きましょう。


■2017年7月 『やもめの献金』

イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」
(ルカによる福音書 21章 1~4節)

 レプトン銅貨二枚。160円程度のものです。しかしそれは、やもめの生活費のすべてでした。小麦粉を買い水でこねて焼きます。少しのオリーブ油をつけて食べる。傍らに一杯の牛乳があったかもしれません。それが身を養う一日分の食事であった・・・。
 彼女はなぜこのようなことをしたのでしょう。申命記には次のように書いてあります。
 あなたは毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。   (申命記 14章22節)
収穫物をはじめとする全収入の十分の一を献げることが律法の定めです。つまり、やもめには全財産を献げる必要はないのです。義務ではありません。また、誰かから強いられたわけでもないでしょう。そもそも、やもめから160円のお金を強いる人はいません。では、なぜ彼女は全財産を献げたのか。
 献げた後のやもめの姿を想像してみます。暗かったでしょうか。憂鬱だったろうか。そうは思えません。やもめの表情は明るかったと思います。今日の食事はありません。明日がどうなるのかもわからない。しかし彼女は明るかった。すべてを献げ、神さまに身を委ねた平安が、彼女を満たしていたと思います。神さまに対する喜びと感謝に押し出されてやもめは、豊かに献げることをしたのです。

 今、私たちの教会は財政難です。役員会は献金の協力を訴えています。自分の教会のことです。受けとめてください。共に重荷を分かち合いましょう。それぞれの立場で出来ることがあるはずです。そして同時に考えたいのです。もし嫌々献げるのであれば、その献げものは神さまに喜ばれるでしょうか。献金は信仰の業です。神さまへの喜びと感謝があって生きたものになります。献げるその人と教会を生かすのです。“財政難→献金→仕方がない”これではいけません。まず、神さまに愛され、主キリストによって生かされていることを思い出しましょう。ここが私たちの出発点です。これを力にして、皆で心を合せて厳しい現実に立ち向かっていきたいのです。


■2017年6月 『最高の道』

あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に務めなさい。
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
(コリントの信徒への手紙一 12章 31節)

 「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」。混乱したコリント教会です。パウロは語りました。
 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」主に結ばれて私たちはひとつの体を形づくっている。信仰の一致の大切さと、必要のない人間はひとりもいないことを告げました。そして連続して、教会を生かす最高の道を教えると言うのです。
 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(13章 3節)    
 最高の道は神と隣人を愛すること。これが出来るように、主からの恵みを熱心に求めなさいと言うのです。
 
私たちの教会は、2014年以降礼拝出席者が減少しています。亡くなった方々がいます。体調が悪く教会へ来ることが出来ない人もいます。教会から離れる人もいました。これらに伴って経済的にも厳しい現実が訪れています。このままであれば、今年度の決算は赤字が予想されます。私たちに求められているのは、一人一人がこの現実を受けとめて担うことです。梅ヶ丘教会は、梅ヶ丘教会のメンバー以外に担う人はいません。皆で力を合わせましょう。そして伝道に励む。これまでに勝って伝道の努力をして行きましょう。

 思うことがあります。教勢の減少は教会の心に痛手を与え、経済的な危機をもたらしています。しかし牧師は、「ガンバロー」と言って拳を振り上げようとは思いません。確かに頑張らなければならないのです。けれども、頑張り方があります。私たちは教会です。信仰によってひとつに結ばれ、主キリストの御体を形づくる者たちです。生けるキリストを忘れ、隣人を見失って採算を求めるように頑張るなら、私たちは福音を失ってしまいます。厳しい時こそ教会にとって一番大切な所へ立ち返るべきでしょう。一番大切な所とは、神さまが世を愛して主キリストを与えてくださったことです。この福音に留まりましょう。福音に留まって神と隣人を愛す。ここが私たちの原点であり出発点です。この道を歩む時、必要なものは主によって備えられます。


■2017年5月 『主の歌がわたしと共に』

昼、主は命じて慈しみをわたしに送り
夜、主の歌がわたしと共にある
  わたしの命の神への祈りが。
(詩編 42編 9節)

 『SING/シング』アメリカのアニメーション映画です。主人公はコアラ。彼は潰れかけた劇場の支配人です。「一般人の中からスターを発掘しよう」企画を立てます。オーディションに残ったのは5組。ロックを歌うヤマアラシの女の子。亭主と25匹の子ブタがいるブタの主婦。父親がギャングであるゴリラの青年。実力はあるけれどプライドが高くて売れないミュージシャンのネズミ。そして歌唱力抜群なのですが、内気で人前では歌えないゾウの女の子。一人一人、才能を持っています。そして同時に、人生の影を持っていました。
 ヤマアラシの女の子には彼がいます。二人でオーディションに出場します。けれども認められたのは彼女ひとり。彼は冷たくなりました。そんなある日、彼は別の女の子を家に入れてしまいます。彼女は彼のことが好きでした。しかし、裏切られてしまった。そして悲しみと屈辱を糧に変えて歌を作ります。この歌が、多くの人々に感動を与えるのです。
  子だくさんのブタの主婦。幸せな暮らしです。しかし彼女は輝きたかった。自分の情熱を表現して、たった一度でもいいです。人生の舞台でスポットライトを浴びたかった。
 ゴリラの青年。母親がいません。心はまだ少年です。真面目な人柄でした。一方、父親はギャング。刑務所の中です。息子は面会に行きますが会ってくれません。逮捕されたのは、逃走を手伝う自分が時間に遅れたためでした。息子は泣きます。父親を慕っているのですが、返ってくる愛情はありませんでした。
 最後はゾウの女の子。気持ちの優しい子です。けれども自信がなくて自分を出すことができません。大きな体ですが、緊張すると身を小さくします。このとき彼女は必ず耳を塞ぎます。「誰の言葉も聞きたくない」劣等感にさいなまれて、心を閉ざしてしまうのです。

 登場する一人一人は、私たちの姿でした。それぞれの現実に耐え、努力をして生きています。彼らは歌うことで輝きます。私たちもそうです。神さまを信じる私たちは、主キリストを仰いで歌います。喜びの日にも、悲しみの時にも、歌いながら生きて行く。そして神さまは、私たちの歌を聴いてくださいます。私たちの祈りを受け止めてくださる方です。 
賛美を歌い、祈りつつ生きて行く。主キリストが輝き、私たちを照らしてくださいます。


■2017年4月 『沈黙は歌に変えられ』

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
(マルコによる福音書 15章33~34節)

 映画『沈黙』を観ました。江戸時代初期。激しいキリシタン弾圧が繰り返されます。雲仙に引き連れられた信者たちは支柱に縛られます。地中から湧きだす熱湯を穴の開いたひしゃくで汲み出しては、シャワーのように浴びせられます。外国人宣教師はこの様を見せつけられ、役人から棄教を迫られます。「教えを捨てれば、あの者たちは助かる」と。宣教師は茫然とする中で祈り続けますが何も起こりません。そこにあるものは、神の沈黙でした。

 何度も神の沈黙に出会ってきました。命を願っておとずれたのは死。このようなこともありました。旧約聖書、コヘレトの言葉7章には次のように書いてあります。
 善人がその善のゆえに滅びることもあり
 悪人がその悪のゆえに長らえることもある。

 この世が神の国でないことは承知しています。けれども、心のやり場を失う時があります。このようなとき私は、十字架の主イエスを思い出します。マルコの福音書では「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」これが最期の言葉です。
 信仰を得て神の沈黙に出会わない人はいません。理不尽な現実の中で「なぜ」と問い、神さまを恨みに思うでしょう。当然なことです。そして、この時に思い出したいのです。最大の神の沈黙に出会ったのは主イエスであることを。ユダヤ教の歴史の中で神を父と呼んだのはこの方だけです。神の愛と赦し、救いの到来を全身全霊で告げました。この末に、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」主イエスはこの祈りを残して死んだのです。最も深い沈黙を負ったのは、私でもなければあなたでもない。迫害を受けたキリシタン達でもない。それは、イエスご自身です。
 最大の沈黙を前にしてイエスは死にました。しかし主は、三日目に復活を遂げます。重い沈黙を破る神の答えが復活の出来事です。

 叶わない祈りの数々があります。酷い現実があるのです。この中で私たちは信じます。祈りによって主と繋がりつつ復活の朝を待つ。沈黙が賛美の歌に変えられる救いの朝を待つ。主キリストと共に、信仰をもって待つのです。

■2017年3月 『伝道の土台』

神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。
(テモテへの手紙二 4章1~2節)

 年度末を迎えています。先日、新年度の予算編成について財務役員と話をしました。「皆さん本当に良く献金してくださいます」と言っていました。作成された予算案は堅実なものです。私たちの教会は、大規模教会ではありません。礼拝出席者は減少しています。この中で堅実な予算編成をすることが出来ます。背後に、一人一人の地道な信仰の歩みがあることを思いました。

 テモテへの手紙二は、一世紀の終わりから二世紀の初めごろに書かれたものと考えられています。教会の中に異端信仰が起こりました。信仰の指導者が、若い伝道者へ教えと励ましの言葉を贈るものです。「折が良くても悪くても」と語られます。状況は、時代の変化と共に良くもなれば悪くもなります。しかし福音は変わりません。変わる状況に一喜一憂することなく、御言葉を宣べ伝えなさいと教えられています。

 変わる現実の中で変わらない福音を宣べ伝える。これを可能にする土台は、日頃の信仰生活です。私たちは思い立ったように教会へ来るわけではありません。週日の中で日曜日に教会へ行くことが頭の中にあります。礼拝の席に帰って来て、主キリストと出会います。ここに生きる喜びがあります。新来会者が来れば関心を持ち、その人が求道者になれば祈りをささげるでしょう。病に伏す人がいれば心配し、子供たちが成長すれば感謝をささげます。世にある教会です。様々な必要があります。献金をして一つ一つを賄っていきます。このような信仰生活、地道な教会の営みが、変わる現実に翻弄されずに福音を宣べ伝える力になります。教会は、信仰においても、生活や金銭においても、落ち着いていなければダメです。日々の信仰生活を健全に生きてこそ、伝道する力が与えられるのです。

 「キリストの出現と御国を思い」とあります。終末のことです。時間には限りがあります。福音に適った教会の営みを維持しましょう。主と隣人に心を込めるのです。そして日が暮れる前に福音を伝えましょう。私たちの教会はそれをすることが出来ます。


 具体的に必要なのは、〃信仰の心を外に向けること〃です。とかく自分の信仰に関心が向きます。この関心を隣人に向けるのです。心の目を他者に向ければ、隣人の悲しみが見えてきます。人の力では埋められない貧しさが見えてきます。それはかつての自分自身の姿かもしれません。そこにキリストを伝える。そして心にある大切な人と一緒に礼拝の席へ進み出たいのです。
 主を信頼して、信仰の心を隣人に向けましょう。一人でも多くの人と福音を分かち合いたい。私たちがそれをしていきます。


■2017年2月 『わたしたちは伝道します』

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
(マルコによる福音書1章16~17節)

 役員会では新年度の準備が始まっています。私は、新年度の目標を〃伝道〃に定めたいと考えています。
 問われるのは伝道の中身です。有名人を呼んで人集めをしようと言うのではありません。受洗者の数が増えてよしとするのでもない。伝道は、一人一人に復活のキリストがもたらされることです。主が生きて働く教会が豊かに形づくられることです。そのために私たちは、まず、自分が救われた初めの日を思い出したいのです。

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」この御言葉のあと主イエスは弟子たちをお召しになります。シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ。やがてキリストが復活した後、召された弟子たちは聖霊を受けて教会となります。
 主を知らなかった弟子たち・・・。しかし主は彼らを知っていました。一人一人を御許へお召しになります。そして、私たちもこの中にいたのです。初めは聖書の言葉も良く分かりませんでした。しかし、段々と信じることが出来ました。不思議にも信仰の歩みは守られて、今日も教会のメンバーとして生かされています。過ぎた日々を振り返れば、人生の道に恵みの記念碑が幾つも建っているでしょう。そうであれば、私たちがキリストを伝えるのです。召された弟子たちが教会となって伝道したように、弟子である私たちが主キリストを伝えるのです。このお方を指し示すのです。

 具体的に必要なのは、〃信仰の心を外に向けること〃です。とかく自分の信仰に関心が向きます。この関心を隣人に向けるのです。心の目を他者に向ければ、隣人の悲しみが見えてきます。人の力では埋められない貧しさが見えてきます。それはかつての自分自身の姿かもしれません。そこにキリストを伝える。そして心にある大切な人と一緒に礼拝の席へ進み出たいのです。
 主を信頼して、信仰の心を隣人に向けましょう。一人でも多くの人と福音を分かち合いたい。私たちがそれをしていきます。


■2017年1月 『最初の礼拝』

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
(マタイによる福音書2章10~11節)

 東の国から星に導かれて長い旅をしました。再び学者たちの上に星が輝きます。彼らは喜びにあふれます。星が止まった下には貧しい家がありました。彼らはそこへ入ります。するとそこには、母マリアと共に幼子キリストがおられた。学者たちは、黄金、乳香、没薬、三つの宝をささげて幼子を拝みます。世に来たキリストが最初の礼拝を受けた日です。代々の教会はこの日を1月6日と定めエピファニー(公現日)と呼んでいます。

 ルカによる福音書では、キリストの到来を次のように告げています。
 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 (ルカによる福音書2章11節)
キリストは世に来た。神さまがひとり子を私たちに与えてくださったのです。
 クリスマスは、神さまがキリストを与えた日。エピファニーは、キリストを礼拝して自分自身を主にささげる日です。

 一人の高校生が言いました。「もらったものよりも、何かしてあげたものが最後まで残ると思う。」自分が得たものよりも、自分が誰かのためにささげたものが、実は最後まで残ると言う。何事か経験したのでしょう。深い洞察です。その通りだと思いました。自分本位に生きれば見苦しくなります。反対に誰かのために労苦をさわやかにささげるなら、その人は健やかな輝きを身に宿すでしょう。
 学者たちは遠い道を旅しました。宝をささげて喜びとした。私たちは何をささげるのでしょう。自分自身しかありません。小さくなって世に来たキリストを全身で抱き、このお方とひとつになって自分自身を神さまにささげるのです。財や能力ではありません。主の御手の中に自らを置くようにして、あなた自身を主にささげるのです。キリストを拝む、礼拝をささげるとは、このようなことです。
 そしてこれが出来たとき、私たちの行く道は変わります。東の国の学者たちは主を礼拝した後、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げを与えられます。彼らは別の道を通って国へ帰りました。キリストを頂き、自らを主にささげるとき、人生の道が変わるのです。