今月の一言(2016年)

■2016年12月 『マリアとエリサベト』

主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
(ルカによる福音書1章45節)

 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
 マリアは神の言葉を受け入れました。娘であるわたしが神の子を宿す・・・。文字通り、身も心もささげる信仰の決心です。そしてこの後マリアは、親族のエリサベトの許へ向かいます。聖書には次のように書いてあります。「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。」マリアは駆け出したでしょう。急いでエリサベトの許へ向かったのです。
 大きな決断でした。神さまの前にたったひとりで決めた事です。マリアは自分が下した決断の大きさに耐えられなかったのかもしれません。エリサベトとマリアは親子以上に年が離れています。そしてエリサベトも、神さまから特別な使命を頂いて、高齢の身でありながらお腹に子を宿しています。エリサベトしかいませんでした。自分の大きな決断を理解してくれる人は、彼女しかいなかったのです。
 マリアを迎えたエリサベトは言いました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」〃マリア、お前の決心は間違っていない。大丈夫。信じたように生きてごらん。〃エリサベトは慄くマリアに力強く告げたのです。

 神さまを信じるとは、神さまを信じて生きることです。人の評価を求めるのではありません。他人にどう評価されようと、神さまの愛の中で生きていきます。ひたすら自分の幸せを求めるのでもありません。喜びも悲しみも、慄きさえも受け入れて、私に向けられている神さまの心に応えて歩んで行くのです。
 そして私たちは、ひとりではありません。あなたの信仰を支えてくれるエリサベトがいるはずです。受洗の決心をするとき、そっと背中を押してくれた人がいたでしょう。人生の岐路に立たされたとき、共に祈って道を探してくれる人がいた。あるいは、その人の内に宿っているキリストによって、迷う信仰の心が照らされたことがあります。
 今日、エリサベトの住むユダの町とは教会のことです。私たちはここで、互いに祈り合い、励まし合って、神さまを指し示します。あなたが、誰かにとってのエリサベトになるのです。この交わりの中で養われます。私たちは福音を生きる者へ変えられて行くのです。


■2016年11月 『信仰による救い』

福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
(ローマの信徒への手紙1章17節)

 1517年10月31日、マルティン・ルターは「95箇条の提題」をヴィッテンベルク城教会の扉に掲示しました。これが宗教改革の始まりと言われています。
 これ以前にルターには大きな苦悩がありました。パウロの言う「神の義」の意味に苦しめられていたのです。当時のルターにとって神は、正義であり、罪ある人間を容赦なく裁く存在でした。いくら善行を重ねても罪が残ります。神は人間をとことん告発し、地獄の底へと追い詰める者だったのです。しかし転機が訪れます。新しい光が差し込みました。「神の義」とは、十字架のキリストのゆえに、罪ある人間を赦す神の愛であることに気付きます。人間は、キリストによって神が成し遂げた救いをただ信じることによって救われることに、心の目が開かれるのです。ここから「信仰義認」すなわち、人はキリストを信じることによってのみ救われるという教理が誕生します。

 私たちは誰しもすました顔をして生きています。けれども、心の内はどうでしょう。幾つもの後悔があり、恨みがあるでしょう。たくさん努力をしました。人に自慢できる手柄もあります。けれども、過ぎたこれまでを顧みれば怖いほどに「何もなかった」と思うことがあります。いいえ。何もないわけがありません。多くの出来事があったのです。しかし、苦労を続けたこれまでを杖として、勝ち取った何かを土台として、自分を支えることは出来ないのです。
 私たちは〃破れ提灯〃です。装って生きていますが、心の中は惨めで無様なものがあります。そして神さまは「それでいい」と言うのです。「そう言うあなたのために、キリストを世に与えた」と言うのです。破れ提灯の真ん中に、キリストと言う灯りのともっていることが救いです。これがルターの理解した「神の義」です。キリストを信じて救われるということです。

 キリストと言う灯りが近づきます。家畜小屋に生まれ、十字架について死ぬほどに身を低くしてあなたに近づくのです。聖書の言葉を聴き、心の扉を開いて主イエスを迎えましょう。救いはここから始まります。


■2016年10月 『礼拝をする者たち』

まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
(ヨハネによる福音書4章23~24節)

 毎回お願いをしています。「礼拝5分前になりました。静粛にして礼拝に備えましょう。携帯電話は、マナーモードにするか電源をお切りください。」ややうるさく感じるかもしれません。役員会の願いは‶礼拝の場を整えたい‶このひとつです。
 まず、礼拝堂に入ったら沈黙しましょう。黙って座るのです。自宅から教会までやって来て、すぐさま礼拝をささげられるものではありません。沈黙の中で心を静める必要があります。そして心が落ち着いたら、祈りをささげましょう。悔い改め、感謝、願い、これから始まる礼拝で御言葉が与えられること、等々。一つ一つを祈ります。その日に説き明かされる聖書箇所を読むことも有益です。
 礼拝が始まる前に会堂で過ごす15分間、あるいは10分間は、主に近づく尊い時間です。この時間をどのように過ごすかで礼拝の質が分かれます。神さまに近づく時間にゴソゴソと話し声が聴こえていれば祈りの妨げになります。また、足を組んで扇子を使いながら礼拝をささげる姿勢が複数あります。これも神さまにふさわしいものとは思えません。
 私たちは礼拝に慣れています。しかし、慣れてはいけないのです。同じベンチに座っているある人は、礼拝が終わったらウエディングドレスを選びに行くのかもしれません。別の人は、重篤な家族の待つ病院へ行くのかもしれない。一人一人が切なる願いを抱えて神さまの前に立っています。だから、自分の常識で動いてはいけないのです。あなた自身、私自身、今日の礼拝が生涯最後になるかもしれません。この現実の中で私たちは礼拝をささげ、主キリストに触れるのです。求められているのは、神さまへの畏れと隣人に対する慎みです。私の祈りと共に、隣人の祈りが生かされる道を考えることです。

 配餐の際、役員は服装を整えてほしいという意見があります。スーツ着用と言うことです。気を付けます。礼拝は教会の業です。いいえ、礼拝をささげる群れが教会なのです。教会はシンプルです。神さまに喜ばれ、一人一人に感謝が湧く礼拝を求めて行けばいいのです。そのために皆で協力して行きましょう。


■2016年9月 『福音を生きる』

信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
(ヤコブの手紙 2章17節)

 教会学校のバイブルキャンプが終わりました。スタッフを含めて総勢26人の参加。この内、教会学校の生徒は5人。あとは青年と大人です。けれども、「子どもたちが少なくて淋しかった」とは感じなかったと思います。子どもも、青年も大人たちも、とても楽しかった。皆が幸いな時間を頂いたからです。
 一泊二日の小さなプログラムかも知れません。しかしCSスタッフは春から話し合いを重ね、入念な準備を繰り返しました。キャンプの施設は日光市にあります。二回実地踏査を行いました。一回目は施設の状況を確認するものです。部屋数、トイレ、お風呂、食事内容、集会室、オルガンは借りることが出来るか、キャンプファイアーはどこでするのか、等々を調べます。二回目は、施設近隣にあるフィールドアスレチックを訪ねました。現地の状況を確認します。昼食をどこで食べるかを考えた上で弁当の手配をする。これらはすべて人数が確定できない段階で行っています。そして参加者の顔ぶれが決まったところで、みんなが楽しめるように再度プログラムを練り直し、スタッフの役割分担を決めます。
 右に述べたのは一部に過ぎません。行われたキャンプの背後には、目には見えない丁寧な準備の積み重ねがあります。
スタッフは〃お疲れさま会〃などしません。参加者の笑顔を見て喜び、神さまに感謝して終わります。あとは、来年に向けての反省会を開くだけです。信仰とは、このようなものだと思います。

 キリスト教と仏教の浄土思想を比較して、どちらも「他力宗教である」と言います。しかし、私はそうは思いません。当然、キリストを信じ、頼みとしています。そしてキリストを信頼するとき、私たちは主によって生きる力が引き出されるのです。「キリストさまに抱かれて、早く天国へ行きたい」とは思いません。むしろ、翻ってこの世の現実に立ち向かいます。主キリストに照らされた者たちが、光を失った闇の中に一つでも多く福音の灯りをともそうと働き始めるのです。
 心を込めて礼拝をささげましょう。ここで神さまの心を知ることが出来ます。そうすると隣人の心を思いやることが出来るようになります。信じる心と生きることが一つになって、福音のために努力する者たちとなる。私たちから、救いの喜びが四方へ広がるのです。


■2016年8月 『平和を実現する人々』

平和を実現する人々は、幸いである。
その人たちは神の子と呼ばれる。
(マタイによる福音書 5章9節)

 主イエスは、「平和を実現する人々は、幸いである」と言います。述べられている〃平和〃は、単にトラブルや戦争のないことではありません。人間同士が互いに信頼し、一人一人が身心ともに健やかに生きられる状態を示すものです。つまり、神さまの慈しみの中で、皆が幸せに生きられることが、聖書の言う平和(シャローム)です。
 主イエスの時代に平和はありませんでした。富める者は人口の約2パーセント。他の大多数の人々は、富める者から搾取されて貧しい暮らしを強いられていました。主イエスの宣教は、このような人々に神さまを父として示し、シャロームの回復をもたらすものでした。

 私たちの現実はどうでしょう。日本の国に飢える人はなく戦争もありません。しかし、シャロームとは言えない現実に囲まれています。集団的自衛権の行使容認を経て、いよいよ改憲が現実味を増した議論になっています。社会の格差は老いた人を苦境に追い込み、若者たちの可能性を奪っています。子供たちにとっていじめがあるのは当たり前。中高生のだれもが口の利き方に気をつけています。
 
 時代の中に立つ教会です。「平和を実現する人々は、幸いである」これは主からの命令です。主イエスに結ばれて神を父と呼ぶ私たちです。神さまが与える平和の中身を知っています。〃だから平和を世に実現しなさい〃主から私たちに与えられたご命令でしょう。
 教会にも平和がなくなる時があります。それは愛がなくなるときです。信仰があればいいと言うものではありません。信仰と愛は表裏一体のものです。信仰と愛が一つとなって平和が生まれます。平和のある所に、希望と忍耐が育つのです。
 私たちに出来ることがあります。神さまを信じる心に隣人を宿すことです。あなたは家族以外の誰かのために祈っていますか。教会に来たとき、他者が見えていますか。もし祈っていなかったら、祈ってください。共に信仰の道を歩んでいる人に心を配ってください。教会は互いの信仰と愛を生かし合うところです。神さまを敬い、他者を重んじる努力を惜しみたくありません。根気よく行っていくとき、教会にシャロームが実現します。それは小さくても私たちの力となり、世の人々に福音の慰めと希望を指し示すものになるのです。


■2016年7月 『主に結ばれて愛を生かす』

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
(コリントの信徒への手紙一 13章7~8節)

 5月の総会で10人目の役員が選出されました。これで全員が揃いました。「ついに最後の役員が現れた。全員が揃った・・・!」ややテレビの観すぎですが『八犬伝』を思い出しました。「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」それぞれの珠を持つ八人の犬士が不思議な仕方で集結し、仇であるタマズサの怨霊と戦います。最後に登場するのは犬江新兵衛。彼は「仁」の珠を持っています。儒教の徳目で中心となるのが仁。文字の意味は、「思いやりの心で万人を愛し、利己的な欲望を押さえて礼と義を行うこと」だそうです。最後に中心となる「仁」を登場させ、物語全体をまとめる構成のようです。
 「仁」は、聖書の言葉で言えば「愛・アガペー」でしょう。価値があるから愛するのではありません。尊いから愛するのでもない。愛すことによって尊さが生まれるのが、聖書の示す愛です。

 役員は、教会の頭であるキリストから教会に仕えるよう召し出された人々です。そして同時に、教会全体を代表する人たちです。求められるのは愛です。すなわち、いつもキリストの心を求めます。思いやりと忍耐を尽くして隣人の中にある心の声を聴きます。人を生かそうとします。この中で、常に教会にとって何が正しいことなのかを見いだしていきます。これらの労苦一つ一つが愛の中身です。出来るか出来ないかは問題ではありません。私たちは何度も失敗を繰り返すでしょう。大切なのは、主を信頼して愛の努力をすることです。そして役員が実際にこれをするとき、教会はさわやかになります。驚くほどの力を現します。教会に生きている主キリストが、私たちに豊かに働いてくださるからです。
 私は公平を大事にしています。主の前に一人一人が愛と信仰をもって発言し、互いの弱さを担い合える役員会でありたいと願っています。役員は重い奉仕の務めを負っています。教会員は役員のために祈ってください。教会生活の中に疑問やつまずきの種があれば、抱え込まないで牧師や役員に伝えてください。私たちは主によって救われ、喜びの奉仕へと召されています。共に喜びを輝かせましょう。


■2016年6月 『起きて食べよ』

主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブについた。    
(列王記上19章7~8節)

 エリヤは逃げていました。偶像の神々を崇め、エリヤを殺そうとする王妃イゼベルの手から逃げていた。ベエル・シェバに着いたとき彼は精根尽きて倒れてしまいました。そしてこのとき、神の声を聞きます。「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」。

 エリヤに語られた言葉。私たちの人生に、重ねることが出来るのではないでしょうか。年配の牧師が言いました。「若い人はいい。何でもできる」本当ですか。たくさんの選択肢はあります。しかし、充分な力量があるわけではありません。多くの場合、未知の明日を前にして希望と不安を一緒に抱え、恐れを抱くのが若者です。壮年はどうでしょう。逃れられない重い責任があります。そして、妙に人と言葉が通じなくなるのです。心に情熱はあるのですが、出来ることと出来ない事の別が分かって、口が重くなります。
 沢山の喜びを知っています。同時に、誰にとっても生きる事は闘いでしょう。そしてこの道は長く、耐え難いものがあるのです。

 神さまはエリヤにパンと水を与えました。彼は起き上がり、これを食べて力を付けた。
そして主キリストは私たちに告げています。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 (ヨハネ6章56節)
 主は、「あなたはわたしを食べて生きよ」と言います。食べるとは、食物を味わって体に吸収し、エネルギーに変えることです。私たちは、キリストを味わって魂に吸収し、生きる力に変えるのです。主は、説教と聖餐によってご自身を私たちに与えます。牧師の説教を用いて、あなたに語りかける主の言葉を聞くのです。聖餐のパンは、あなたの手の中にあります。主はそれほど小さくなって、ご自身のすべてをあなたに与えたのです。
 この旅は長い。そうであればキリストを食べる。うずくまりたくなる現実があります。もう一度、起き上がりましょう。礼拝の席で主キリストを頂くのです。このお方が共にいて、あなたの生きる力になってくださいます。


■2016年5月 『教会の生き方』

他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。
「多く集めた者も、余ることなく、
わずかしか集めなかった者も、
  不足することはなかった」
と書いてあるとおりです。     
(コリントの信徒への手紙二 8章13~15節)

 3月総会で行った役員選挙の結果、就任辞退者が重なりました。1名の欠員が生じています。このようなわけで、5月総会で役員の補欠選挙を行います。役員会は現在「役員選挙内規」を改めるなどして、補欠選挙の準備を進めているところです。
 心に浮かんだのが掲げた聖書の言葉です。内容は、パウロがコリント教会に献金の勧めを与えるものです。届ける先はエルサレム教会。全教会の母教会ですが、経済的にも人材的にも貧しい状況にありました。一方、当時のコリント教会は豊かでした。注目したいのは、パウロはこの献金運動を「釣り合いがとれるようにするため」と捉えていることです。豊かな者が貧しい者に寄付をするのではありません。現在のゆとりがエルサレム教会の欠乏を補い、いつの日かエルサレム教会のゆとりがコリント教会の欠乏を補う。このようにして互いの釣り合いがとれる。以上のように捉えています。

 教会は信仰共同体です。足りないところを補って、生かし合って行くところです。今、役員の奉仕を出来ない人がいます。出来る人もいます。出来ない人は、これから先ずっとできないわけではありません。また出来る日が来ます。この反対もあるでしょう。そうであれば、互いに出来る事を行って、補い合っていきたいと思うのです。
 私たちにとって重要なのは、教会が主キリストの体として形づくられることです。教会に来て、「ここに主キリストが生きて働いている」この事実を、信仰によってはっきり受けとめられるようになることです。私たち一人一人が、教会を形づくる責任当事者です。求められているのは、信仰の心を合わせ、愛と謙遜をもって仕え合うことです。教会員は役員を重んじてください。表には知られないたくさんの努力があります。そして皆で主の教会を形づくって行きましょう。これが私たちのすべきことです。


■2016年4月 『土台はキリスト』

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 (コリントの信徒への手紙一 15章20節)

 当時のコリント教会には、主キリストの復活を認めない人たちがいました。これに対してパウロははっきりとものを言います。
 キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。 (Ⅰコリント15:14)
主キリストが復活しなかったのであれば、私たちは架空の福音を信じていることになります。従って、宣教も信仰も空しくなる。信仰の土台は、私たちの心の中にあるのではありません。主キリストが、現に復活したことが土台です。主の復活と言う土台の上に、私たちは信仰の柱を立てるのです。

 では私たちは、キリストが復活したことをどこで認めることが出来るのでしょう。目で見ることも、触って確かめることも出来ません。聖書は次のように述べています。
 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。 (エフェソ1:23)
復活のキリストは、教会をご自身の体として生きて働いていると言います。これだけを聞くと難解ですが、実は難しいことではありません。教会では福音が宣べ伝えられます。聖書の説き明しをとおしてキリストが語られるのです。そして聖餐が行われます。主の晩餐が、あの日と同じように執り行われています。さらにペトロやヨハネが招かれたように、今日も多くの人々が救いへと招かれています。招きに応えて弟子となった私たちの間には、キリストを喜びとし、人生の主と頼む信仰の心が、今も熱く燃えています。これが、主が教会に生きて働いていると言うことです。

 教会は信仰共同体です。それは、復活のキリストを宿す神秘の共同体です。信仰の心は、時に強くなり、時に弱くなります。自分の心を見るのではありません。変わることがない聖書の言葉を聴き、見えざるキリストを仰ぐのです。そして差し出される聖餐を取って食べます。主ご自身を頂戴するのです。この営みの中で私たちは変えられます。暗い心に愛の灯りがともります。険しい明日に立ち向かって、希望を抱くことが出来る。ここに救いがあります。復活した主キリストが信仰の土台。私たちを神の国に至るまで生かす、命の土台です。


■2016年3月 『霊に燃えて、主に仕え』

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 (ロマ書12章9~12節)

 3月20日(日)は教会総会です。新年度の宣教計画を立て、予算を決めます。10人の役員を選挙します。私は毎日祈っています。皆さんもぜひ祈ってください。主の御心がなることを求めて熱心に祈り続けましょう。

 宣教計画を立案する時に、現在の私たちの教会にとって何が必要なのかを考えました。この末に示されたのが、冒頭に掲げた言葉です。書いた人はパウロ。内容は、教会生活の本質を教えるものです。
・愛には偽りがあってはなりません。
愛に偽りがあれば、教会は空疎な場所に変わってしまいます。
・相手を優れた者と思いなさい。
相手が自分を重んじてくれるのを待つのではなく、先んじて相手を重んじなさいという教えです。
・霊に燃えて、主に仕えなさい。
キリストという霊の糧に養われて、神と隣人に仕えて歩んで行こうと言うのです。

 教会に集まる私たちは、それぞれに人生の課題を負っています。時には、課題の重さに潰されそうになります。この中で福音を信じ、互いに信頼し、協力して教会生活を形づくっています。この営みを、心を込めてしっかりと行いたいのです。具体的に言えば、教会が主キリストによって満たされているか。あなたの心に信仰の喜びはあるか。梅ヶ丘教会を自分の教会として大切にできているか。これらが問われます。教会生活にこれで良いと言う到達点はありません。絶えず福音に立ち帰って、主の前にふさわしい私たちの歩みを築いて行かなければなりません。
 第一にすべきことは、福音が正しく宣べ伝えられ、聴かれることです。牧師も教会員も、皆で主に心を合わせることが必要です。真剣に礼拝をささげ、絶えず祈りましょう。互いに愛し合い励まし合って信仰を保ち、福音が前進することを願って主に仕えます。教会の当たり前な営みを愛と信仰をもって堅実に積み上げて行くのです。この中で私たちは知るでしょう。主キリストが、今生きて働いていることを知るのです。


■2016年2月 『人間を背負う神』

あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた。
同じように、
わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負っていこう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す。
 (イザヤ書 46章 3b~4節)

 紀元前587年、バビロニア帝国の侵略によってエルサレムは陥落し、ユダ王国は滅亡しました。民は帝国へ引いて行かれます。この日から捕囚は五十年の長きにわたって続きました。冒頭に掲げたのは、捕囚末期に告げられた神の言葉です。〃どのような状況にあろうと、わたしはあなたたちを捨てはしない。あなたたちが白髪になるまで背負い、必ず救い出す。〃

 2月10日が「灰の水曜日」。この日から3月27日のイースター前日までが受難節。主キリストの御苦しみを覚える期間です。
 キリストは十字架につきました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」これが最期の言葉です。そして、もはや言葉にはならない大声をあげて息を引き取りました。教会は、このイエスの死にすべての人の救いがあると告げます。

 私はこれまでに一度だけ、信仰を持たなければ良かったと思ったことがあります。母が危篤の時でした。病院の廊下にいてひとり祈りました。それは、全身の毛穴から祈りが出尽くすほどに祈った。けれども状況は常識的に過ぎて行きます。このとき、「信仰など持たなければ良かった」と思った。希望を持つことが辛かったのです。しかし、それだけではありません。言葉の出尽くした祈りの中で、「主は知っている」このことを知りました。今この現実を主は知っている。ここに私の平安がありました。
 キリストが十字架につくとは、この世の現実を知り、泥田の中にいる私たちを背負ってくださることです。理不尽な仕打ち、報われない努力、病、災難、愛する者の死。叫ぶ私を背負っているのが十字架の主です。世の現実に打ちのめされ、神さまを恨みに思うことは簡単です。しかし私たちはそうはしません。十字架の主を仰ぎます。死に至るまで私たちを背負いきる神が十字架のキリスト。このお方を仰ぐとき、主に背負われている自分自身を見いだすことが出来ます。人の救いは、ここから始まるのです。


■2016年1月 『私たちは伝道します』

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 (ヨハネによる福音書 3章 16節)

 私は礼拝の席が空いているのを見ると胸が苦しくなります。「なぜここに人がいないのだろう。主は生きているのに・・・」と思う。やり場のない気持ちを抱いて自分自身を責めてしまいます。もちろん、人間の力で伝道できるものでないことは承知しています。しかし何かが足りないと思う。そして、意欲が起こります。この現実の中に主キリストを宣べ伝える、伝道の意欲が引き起こされるのです。

 ヨハネは神の愛を告げます。〃神が〃、〃あなたを〃、愛していると告げるのです。この事実を分かってもらうためには、私たちはどうすればいいのでしょう。パウロは次のように語っています。
 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 (コリント一 15章3~5節)
神の愛はキリストに現れています。主キリストの言葉と業、十字架の死と復活を伝えることが神の愛を告げること。伝道することなのです。

 伝道は言葉だけではありません。福音の言葉と生活が一つになって力を持ちます。問われるのは教会の営みです。私たちが主を仰いで神さまの愛を生きることがなければ誰が信じるでしょう。まず、心を込めて礼拝をささげます。神の言葉を聴き、聖餐を頂き、祈りと賛美をささげる。祈って備えましょう。そして祈りをもって礼拝に備えると、隣人の姿が見えてきます。喜びと課題を抱えて歩む一人一人が、神さまに愛され、主の許に招かれていることを知らされます。この中で、自分にできること、しなければならないことに気が付くでしょう。そうしたら、それをするのです。
福音の言葉と生活が一つになるとき教会は力を持ちます。神の愛を宿して現実に立ち向かう力を持ちます。この教会で人は、主イエスに出会って救われるのです。
 新しい年が始まります。神さまの愛を生きましょう。一つになって伝道しましょう。