今月の一言(2013年)

■2013年12月 「クリスマスの不思議」

天使は言った。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである。
あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。
これがあなたがたへのしるしである。」
(ルカによる福音書2章10~12節)

 寒い冬の夜です。野原で羊飼いが羊の群れの番をしていました。するとそこへ天使が現れます。天使は告げました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と。そして、妙な話です。救い主は飼い葉桶の中に寝ていると言う。これがメシアのしるしだと言うのです。
 生まれた子の揺りかごは飼い葉桶。人並み以下です。クリスマスの出来事は幸いなものではありません。とても惨めな、心の痛む出来事です。しかし私たちは。ここに喜びを覚えます。人の重荷を下ろす深い慰めを受け取るのです。
 馬小屋で生まれた御子は十字架の上で亡くなります。豊かな思いを味わうこともなく、世のどん底を生きます。生まれた時がそうであったように死ぬ時も裸でした。その生涯には、一つの偽りもありません。

 私たちは嘘をついて生きているわけではないでしょう。しかし、装って生きています。そうしなければ、生きて行けないのです。誰しもが理不尽な思いを味わっています。心の奥にある悲しみをこらえ、突然湧き上がる憤怒に耐えて生きている。今日一日、今日一日と、自分の努力を続けているのです。貧しい馬小屋も、ゴルゴダの丘も、私たちの人生の中にあります。そしてキリストは、ここに来ました。私たちの最も辛い現実に身を置き、担うためです。
 キリストが私たちを照らします。覆いきれない私自身を照らします。罪を赦し、尽きない愛を注ぎ、生きる勇気を与えるためです。私たちはこれを知っているので、クリスマスを喜ぶことが出来ます。神さまに感謝をささげることが出来るのです。

 クリスマスは繰り返されます。人を慰め心に救いの灯りを点すクリスマスは繰り返されます。今年もキリストは、あなたのところに来てくださいます。訪ねましょう。主がきてくださった馬小屋に、何も持たない空の手で、このお方を拝みに行きましょう。神の御子が貧しくなられたクリスマスの不思議は、あなたのためにあるのです。


■2013年11月 「丁寧な伝道」

それで、体の分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
(コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章25~26節)

 ”教会”を考えています。私たちの教会にとって何が必要かを考えています。
 パウロは、教会を人の体にたとえまいた。体は常に気を配って養い育てるものです。感覚をつかさどる部分はデリケートです。大切にします。弱い部分はかばい、足りないところは鍛錬して強くするでしょう。教会がキリストの体なら、私たちに求められているのは丁寧な伝道です。体を守り、養い、成長を与えて行くような、丁寧な伝道が求められていると思うのです。

 第一に必要なのは礼拝に集中することです。ここで福音が、正しく、分かる言葉で伝えられなければなりません。礼拝は牧師や当日の奉仕者のみによってつくられるものではないでしょう。教会につながるすべての者が、一週間準備をしてささげられるものです。祈祷会に出席してください。共に祈りましょう。それが叶わない状況なら、一週間をかけて礼拝のために祈ってください。教会は、人が素の心を見せるところです。黙して祈る姿に深い悲しみや嘆きを抱えていることがあります。隣人に対する労りと慎みがなければ、教会生活はできません。新来会者には常識的な姿勢で接する事が必要でしょう。役員をはじめ、それぞれが奉仕の責任を忠一に果たします。
 丁寧な伝道とは、教会の営みの一つ一つに愛を注ぐことです。努力して時間をささげ、忍耐して手間をかけます。これができると教会は豊かになります。人の体にたとえるなら、教会は健やかな力に満ちるのです。

 人ひとりの重さを感じます。かつて教会員が言いました。「あと何回教会に来られるのかと思う時がある」。胸を弾ませて人生の時を生きている青年がいるでしょう。教会にようやく自分の居場所を見いだせた人もいます。主が一人一人をお召しになったのです。主が一人一人を愛しているのです。そうであれば、私たちは主キリストを見上げて、丁寧に伝道していきましょう。観念的なことではありません。頭を働かせ心を砕き、時間をかけて手を動かすことが求められています。共に励んで行きましょう。


■2013年10月 「シャローム」

万軍の主はこう言われる。
 エルサレムの広場には
 再び、老爺、老婆が座するようになる
 それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。
 都の広場はわらべとおとめに溢れ
 彼らは広場で笑いさざめく。  
(ゼカリヤ書 8章4~5節)

 9月は教会創立70周年記念月間です。ここまで一つ一つの計画が大きな恵みによって運ばれています。サル15日には、青年会の千厩教会訪問の報告がありました。成長した青年たちの鵜方に接して、教会の将来に明るい希望を抱いた方も多かったと思います。私もその一人です。梅ヶ丘教会はすべてが手作りの教会です。それぞれの計画の背後には、祈りと準備の数々があります。主と教会を愛する一人一人の思いを大切にして、これからも皆で歩んで行きましょう。
 70周年という節目の時を迎えています。問われるのはビジョン。「私たちの教会は、これからどこを目指して歩むのか」です。

 冒頭に掲げたのはゼカリヤの預言です。50年に及ぶバビロン捕囚が終わりました。ユダの民は故国へ帰ります。しかしそこは廃墟同然のありさまでした。神殿を再建し、神様に従う新しい神の民の形成を図ります。けれども事業は進みません。財政基盤は乏しく、近隣諸国からは妨害を受け舞う。人々の意欲は挫折に変わりそうでいた。そしてゼカリヤは、この現実の中に神の言葉を告げるのです。
 彼はダビデの力を語りません。ソロモンの栄華を語ることもしません。民に示した希望は、年を取った者が安心して憩い、乙女や子どもたちが健やかに笑う姿でした。すなわち”シャローム(平和)”です。単に争いや戦争がないと言う意味ではありません。神がそこにおられるゆえに、揺るぎない平安がもたらされることです。私たちの教会にはたくさんの可能性があります。生かして行かなければなりません。変わる時代に対応いていくことが必要です。具体的なビジョンが求められています。そしてこれを踏まえて、教会にとって最も大切なことは、シャロームが実現されていることです。主キリストがおられるゆえに、年を取った人も、若い人も、子どもたちも、安心して喜べる教会です。私たちの教会にシャロームがはあります。これを大切にして、70年目からの歩みを踏み出したいのです。


■2013年9月 「一杯の紅茶の物語」 ~教会創立70周年を記念して~

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。
(マタイによる福音書 10章42節)

 1943年9月4日、牧師館竣工。二部屋を集会所として使用し、梅ヶ丘教会の伝道が始まりました。ところがこの建物は、1945年5月23日の戦災によって焼失してしまします。終戦を迎えますが、会堂再建めどは立ちません。教会は信徒の家庭や洋裁学校などを借りて礼拝を守っていたと言います。当時、教団には内外協力会という組織がありました。そこには、空襲を蒙った教会で土地を所有し、手持ち金10万円があれば、会堂建築のために100万円あまりを援助するという制度がありました。教会に土地はあります。しかし10万円のお金はありませんでした。
 このころ植松牧師一家は調布市の下石原に住んでいました。7月の暑い日です。見知らぬ外国人が訪ねてきました。ウィリアム・レイという宣教師です。彼は別の牧師を訪ねたのですが、その人は転居しており、植松家を訪ねたのでした。遠来の客をもてなすものは何もありません。ただ支援物資として贈られた紅茶と砂糖がありました。牧師夫婦は一杯の紅茶を差し上げました。レイ宣教師はこれを喜び、何杯もおかわりをしたと言います。そして最後に、「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」この言葉を残して去りました。
 後日、レイ宣教師から会堂建築のためにと、8万円分の聖書が贈られました。教会は献金に励み3万円を用意しました。これによって内外協力会からの支援を受け、会堂を建てることができたのです。

 一杯の紅茶の物語。不思議な出来事です。神様の大きな恵みです。しかし、降ってわいた出来事ではないでしょう。牧師夫妻はお金が欲しかったのではありません。伝道をしたかったのです。神と人に仕え、伝道することをもって喜びとする牧師夫妻と宣教師がおります。彼らの心はひとりのキリストに結ばれています。ここで出会いを与えられ、伝道のために必要が充たされたのです。大事なのはここです。心の焦点を主キリストに合わせ、伝道をもって喜びとする。私たちの教会は、このような教会です。


■2013年5月 「地の果てに至るまで」

あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てにいたるまで、わたしの証人となる。
(使徒言行録 1章8節)

 今回は、キリスト教放送局日本FEBCについて記したいと思います。
 そもそもの事の初めは、第二次世界大戦が終結した1945年のことです。荒廃したアジアの人々のために祈り、生涯をささげようと決心した三人のアメリカ人青年がいました。彼らは小鳥小屋を改造して放送局を作りました。そこから福音を発信しました。これがFEBCの始まりです。現在では世界に40カ所の送信所を持ち、およそ150カ国の言語で福音を放送しています。

 FEBC日本語放送が開始したのは1952年のことです。現在では、ラジオとインターネットで毎日番組を放送しています。同局に寄せられる手紙は毎月300通余り。そのすべてに返事を書いています。聖書通信講座や教会紹介も行っています。収入はリスナーを中心とした人々からの献金です。経済的には、危機的に厳しい状況が続いています。
 代表の吉崎恵子さんをはじめスタッフの皆さんは、とても立派な伝道者たちです。一般の教会であれば、求道者が教会生活を続け、やがて洗礼を受ける、このような信仰の成長を見ることが出来ます。しかしFEBCの相手はラジオとネットの向こう側。尽くす努力の実りを十分に見ることはできません。教会であれば会員は帰属意識を持ちます。しかしラジオ放送局となれば、マイ・チャーチと言うわけにはいかないでしょう。顔の見えない人々を相手にした伝道です。この中でスタッフを支えているのは、主から託された使命と、リスナーからの便りです。リスナーの中には教会に躓いた人たちがたくさんいます。また、身の上を明かせば差別や偏見の眼差しを向けられ、怖くて教会へ行けない人もいます。あるいは、勤務地の中近東で放送を聞いている人もいます。明かすことが出来ない現実を抱え、FEBCを支えにしている人たちがたくさんいるのです。聖書に記されている「地の果て」は、現代社会が人を追いやる心の荒野かもしれません。FEBCの皆さんは、このような様々な現実の中にいる人ひとりに、使命と喜びをもって仕えています。
 協力しましょう。伝道の使命において私たちはひとつです。彼らのために祈り、献金をもって応援したいと思います。そして共に、主キリストの福音を発信していきましょう。

 利益があるから信じるのではありません。不幸なことが起こったから、信じることをやめるのではありません。主キリストが、私たちの罪を負い、世の現実を担い、死んでくださいました。そして主は、三日目に復活を遂げ生きて働いている。罪と死、世の現実に勝利した者として、今生きて働いている。
 主キリストと共に生きることが私たちの幸せです。信仰において主と結ばれ、このお方と共に生きることが、私たちの救いなのです。


■2013年4月 「ガリラヤで会う」

イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように
言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
(マタイによる福音書 28章10節)

 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」。ユダの最後の言葉です。
 イスカリオテのユダ。裏切った弟子です。彼の救いを考えます。ユダはイエスを裏切ったままではありませんでした。本心に立ち帰って悔い改めています。ところが、この心を受け入れてくれるはずの主イエスは捕らわれの身。結局ユダの悔い改めは宙に浮きます。  
 ユダが救われるのか救われないのか、私たちには分かりません。最後の審判の時を待たなければならないのでしょう。しかし信仰をもって彼の足跡を振り返るとき、ここからも救いのメッセージは聞こえてきます。

 我が主を裏切ったもう一人の人物はペトロです。大祭司の中庭で問い詰められました。「あなたもイエスと一緒にいた」。ペトロは必死に答えました。「そんな人は知らない!」。やがて鶏が鳴きます。彼は己の罪と弱さを知って泣き崩れました。そしてこのペトロが、大使徒と呼ばれる人物に変えられていきます。何が彼を変えたのでしょう。ただ一つ。復活のキリストと出会ったことです。

 ユダは待てばよかったのです。主キリストと出会う、復活の朝を待てばよかったのです。
 「待つ」とは、消極的なことかもしれません。しかし救いを考えれば、待つという姿勢が基本になります。私たちの側から作り出すことはできません。主によって与えられる救いを待つのです。しかし、ボンヤリと待つのではありません。主は明確に「ガリラャへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と告げています。背いた弟子たちはガリラヤで我が主と出会う。ここで彼らは救われます。弱い弟子たちが、福音を告げ知らせる使徒たちへ変えられて行くのです。

 今日のガリラヤはどこにあるのでしょう。復活の主イエスと出会うガリラヤ。それは教会です。誰もが。罪や弱さ、心の痛みを抱えています。行く道に光がほしいのです。このような私たちが集まります。祈りをささげ、互いに励まし合って救いを待つのです。このときキリストは私たちに出会ってくださいます。これが教会。ここで私たちは福音を知ります。神に愛され、罪を許された者たちとして、復活の光の中を歩んで行くことができます。教会で、主キリストを待ってみましょう。


■2013年3月 「それでも信じますか?」

主はサタンに言われた。
「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」
サタンは主のもとから出て行った。
(ヨブ記 1章12節)

 牛の群れが盗賊に襲われました。牧童たちは切り殺されてしまった。羊を放牧させていました。真ん中に雷が落ちた。羊も羊飼いたちもみな死んでしまった。息子7人と娘3人がおりました。一同は長男息子の家に集まって宴会をしていた。すると突然、大風が吹いた。家は倒れました。10人の子どもたちは全員、家の下敷きになって死んでしまいました。これだけではありません。ヨブの体には全身に腫物ができました。ものすごく痒く、陶器の破片でこそげ落とすありさまでした。
 神を信じ、隣人を尊ぶヨブ。次から次へと不幸が襲いかかります。この物語をとおして聖書は、私たちに問いかけるのです。「それでもあなたは、神を信じますか?」と。
 不摂生をして体を壊すなら納得もできます。しかし、健康に気を付けてその末に、重い病にかかることがあります。私たちは理屈に合わない現実を生きています。

 母親が重篤のときでした。私は病院の廊下で祈りました。それは、全身の毛孔から祈りが出尽くしたと思えるものでした。信じて疑わなければ山が動くと言います。けれども、山は動きませんでした。現実は常識的に過ぎて行きます。私は思いました。「神さまなど信じなければ良かった」と。信じるから、希望を持つから辛いのです。現実に呑み込まれてしまった方がよほど楽です。しかし、このときふと気がつきました。「主は知っている」母親の状態を、私の祈りを、主はすべてを知っている。聖書の言葉が心に響きました。「恐れることはない。ただ信じなさい」主は生きている。罪と死、この世の現実に打ち勝って、主は生きている。このことをはっきりと知らされたのです。25歳のときでした。
 利益があるから信じるのではありません。不幸なことが起こったから、信じることをやめるのではありません。主キリストが、私たちの罪を負い、世の現実を担い、死んでくださいました。そして主は、三日目に復活を遂げ生きて働いている。罪と死、世の現実に勝利した者として、今生きて働いている。

 主キリストと共に生きることが私たちの幸せです。信仰において主と結ばれ、このお方と共に生きることが、私たちの救いなのです。


■2013年2月 「一人一人の顔が見える70周年記念」

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、
体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人
であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となる
ために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 
(コリントの信徒への手紙一12章12~13節)

 今年の9月、私たちの教会は創立70周年を迎えます。記念事業のコンセプトは「教会が、教会となるために」。私たちの教会が主の教会として、いよいよ成長し、前進して行くことを願っています。このような流れの中で役員会は、『記念誌』の発刊を決め、現在、記念誌委員会が編集を進めています。そこには、教会員一人一人が文章を書いていただきたいと考えています。欄のタイトルも決まりました。「歩み」としました。それぞれの信仰の歩み、恵みの歩みをつづりたいわけです。
 パウロは教会を人体にたとえています。足、手、耳、目、それぞれの部分が集まって体を作っています。教会も同様。違う私たちが集められて、キリストの体という一つの教会を形づくっている。体の部分に優劣をつけることはできません。それぞれが重要。そしてパウロは、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのだ」と言います。

 私たちは何のために記念事業をするのでしょう。70年を数える教会の歩みの中に、主の恵みを認めるからです。私たちの教会に、神さまの救いの計画が実現しているからです。これを覚えて記念とし、感謝をささげ、信仰の決心を新しくする。これがしようとしていることです。そしてこのような教会の担い手が私たち一人一人。言葉を換えれば、主の救いは、私たちの信仰の歩みの中に刻まれているのです。
 『記念誌』に文章を書いていただく。記念讃美歌の歌詞の公募も始まりました。心は一つです。”全員参加”で行いたいのです。もとより得手不得手があります。状況の違いもあるでしょう。無理なことをするのではありません。一人一人が主キリストに捉えられ、一つ洗礼を受け、梅ヶ丘教会を形づくっています。この恵みを、皆で証ししたいのです。

 クリスマスの記念写真を思い出しましょう。一人一人の顔が見えています。皆が主を喜んでいるのです。ああいう記念事業にして行きたいのです。それぞれの違いを大事にして、皆で一人の主キリストを指し示しましょう。

■2013年1月 「教会が、教会となるために」

そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、
キリストにおいて、この建物全体は組み合させて成長し、
主における聖なる神殿となります。
(エフェソの信徒への手紙2章20~21節)

 2013年9月、私たちの教会は創立70周年を迎えます。役員会を中心に記念誌の発行や記念集会の開催等、一連の事業計画を立て、準備を進めています。問われたのは記念事業全体の中心となる”コンセプト”をどのように定めるかということでした。役員会は話し合った結果、「教会が、教会となるために」この言葉を事業の中心に置き、計画を進めていくことにいたしました。
 教会の歴史を顧みれば、”梅ヶ丘の地に主の教会を建てる”この志が一貫してあったと思います。それは主から与えられた伝道の使命であり、歴代の牧師、先達の教会員たちが力を合わせ、心血を注いできたところです。70周年という節目を迎えるにあたり、”梅ヶ丘教会が、主の教会としていよいよ成長して行く”このことを中心に置いて、事を進めて行きたいと思います。

 宗教改革の伝統に従えば、「福音が純粋に教えられ、聖礼典が福音に従って正しく執行される」ところが教会です。そして教会は、この理解を核として、それぞれの時代の中で発展していくものだと思います。
 誰もが忙しい現代です。大人も子供も、多くの人々の心が脅かされています。そして何が大切なのか分からない。社会は正しさの規範を失い、個人は何のために生きているのかを見失っていると言えるでしょう。この中にあって、まず私たちが、神さまから愛されていることを新しく受けとめたいのです。一人一人が主イエスの十字架の死によって罪を赦され、清められ、神さまのものとなりました。現代のただ中にあって、”あなた”と”わたし”が、共に主を信じていることは素晴らしいことです。この幸いを新しく受けとめて、主が生きて働く教会を形作りたいのです。

 一人一人が福音の当事者です。一人一人が教会の担い手です。これから始まる一年間を通して御言葉を聴き、祈り合い、語り合い、心を通わせましょう。それぞれの持ち場で互いに生かし合っていくのです。感謝をささげ、一人一人の顔が見える70周年にしたいと思います。このとき私たちの教会は、小さくはあっても、世にキリストを示す救いの灯を掲げることになります。主に心を合わせましょう。共に成長する、恵みの年が始まります。