5 ロ−マ人の手紙  題 「偶像礼拝から神への讃美に」     2002.11.10

というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。   (ロマ1:18−25) 


日本バプテスト教会連合の第38回年次総会が静岡県で開かれ全国から約90名の代議員が集いました。今年の年間主題は「霊とまことによる礼拝」(ヨハネ4:24)と採択されました。教会はイエスキリストの福音を宣教する共同体、そして神を礼拝する共同体としてこの世に遣わされています。終末における神の国の完成のためには、その民が呼び集められ、神の栄光を賛美する霊的な礼拝が豊かに回復されなければなりません。それはなによりも私たちクリスチャン一人一人が神の前に、真実な一人の礼拝者となって生きることを意味します。神を見失っている人々を、真実な神への霊的な礼拝者となるように導くこととともに、クリスチャンを父や母に持つ神に選ばれた幼子たちがその小さな唇で主を賛美してゆくように祈りをもって教え育ててゆくことをも意味していると思います。

パウロがこの手紙を書き送ったロ−マ教会は、ヘブル的背景をもったユダヤ人クリスチャンと異教的でギリシヤ的文化背景を持った異邦人クリスチャンとから成り立っていました。特にロ−マの都は世俗的な異邦人世界の中心地にあり、そこに住む人々の生活と偶像礼拝とは切り離せない密接な関係にありました。そこでパウロはまず、異邦人の最大の罪である「偶像礼拝の問題」に触れてゆきます。というのは、そのような偶像礼拝者に神の怒りと審判が天から下されるからです(18)。

1 偶像礼拝は最大の罪 

偶像礼拝とは、「神を知りながら崇めず、感謝せず、人間の手で神々を作り出す」(21、22、23)ことを指します。人間はあらゆるものを神にしたてあげます。日本人が得意とするところです。有名人はみんな神様に祭り上げられます。野球の神様も経営の神様も学問の神様もおられます。ある歌手はお客様みんなを神様にしてしまいました。調子に乗って愚かにも自分は「神」であると名乗る教祖も後をたちません。人間だけでなく蛇や犬やキツネやコガネムシといった動物や昆虫でさえ神に祭られます。愛知県の豊川稲荷にはキツネの霊につかれたという人がかすりの着物に帯を締め、コ−ンと鳴きながら飛び跳ねているそうです。参拝客たちは生き神様だとありがたく信心しているそうです。

まことの神は「我はあってあるものなり」(出3:14)と言われる唯一の創造主なる神であり、人間の手によって作られたり仕えられたりする必要のない永遠の存在者です。すべての人間を照らす太陽が一つのように全人類を創造した唯一のまことの神が歴史を導いておられます。この主なる神が最も忌み嫌われる罪が、「偶像礼拝」です。

旧約聖書の出エジ20:3−6に偶像礼拝が厳しく戒められています。従う者には千代にいたる恵みがあり、背く者には4代に至る災いが宣告されています。

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出20:3−6)

これほどまで厳しくまことの神が偶像礼拝を戒められるのは、偶像礼拝という罪が実に根深く私たちの霊的世界に侵入し、神様との正しい関係を破壊し、深刻な事態をひきおこすからです。

唯一の神を信じる信仰に生きていたユダヤ民族でさえ、しかも割れた海の道を通過してエジプトから脱出でき自由の身となった喜びに満ちた体験をした直後であるにもかかわらず、あらゆる偶像の神々に囲まれたエジプトでの長い生活の中でいつしか偶像礼拝に心が汚染され、モ−セがシナイ山に登って帰ってこないわずかな間に、「金の雄牛を造り飾り立て礼拝をささげる」というとんでもない過ちを犯してしまい、神の激しい裁きを受けてしまいました。新約聖書においてもはっきりと偶像礼拝を避けることが命じられています。

「この方こそまことの神、永遠のいのちです。子供たちよ偶像礼拝を警戒しなさい」(1ヨハネ5:21)

宗教法人だけでも19万、名前が知られている神仏の数は85万5千もある日本社会です。ここにさまざまな占師や霊能者と呼ばれるような人々がうごめく日本です。子供たちの霊をさまざまな偶像からまもってあげることにも心を砕く必要があります。

2 被造世界の中にプリントされた創造主の神性

聖書を知らずモ−セの律法も知らない異邦人は、創造主であるまことの神を知ることができない。それなのに裁かれるというのは不公平ではないかとの反論が生じてきます。パウロは、神の永遠の力や本質は創造主である神が作られた自然界の作品の中にはっきりとプリントされているのでわかるはずであると言います。「神の永遠の力と神聖は天地創造このかた被造物において知られている」(20)。自然界の中に神の存在を知ることを「自然的神認識」といいます。神は世界を創造されたお方ですから自然界の中にご自身の神聖さの本質をにじませておられます。

「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空は御手の技を示す」(詩19:1)

伊勢神宮を訪れた西行法師は杉木立の中の凛とした参道を歩きながら「かたじけなさに涙ながるる」と詠いました。私の恩師の知り合いがあるとき「地べた教」(大地教)を始めたそうです。裸足で土の上を歩くこと、地べたに座ったり寝転んだりするだけ、そうすることによって土のエネルギ−といのちを受けるのだそうです。けっこう効果がある。なんと素朴で純粋な教えでしょうか。人は森の中を歩くだけでも樹から放出される成分によって精神的な安定が与えられるそうです。自然界には私たちの生命を活性化させ癒しと調和を与える力が存在しています。自然界には創造主なる神のいのちの神秘さ永遠さが秘められている。だから神を知らないなどと誰もいえないのです。

石原東京都知事は熱心な法華信者だそうですが、子供たちをヨットに乗せて広い海原に連れ出し、夜には満点の星空を心ゆくまでながめさせたそうです。人間がどんなに小さな存在であり、わずかな時間しか生きられない存在であるか、この大自然や宇宙の奥に存在している超越的な力によって生かされている存在なのだとよく諭したそうです。

私が伊勢田のアパ−トに住んでいた時、T兄は、毎朝、朝日に向かって手を合わせて拝んでいました。農協の農業指導員をしていたためか、太陽こそがすべての恵みの始まりであると信じていたのです。ある日、私がお渡しした聖書を読み、まことの唯一の創造主なる神を知り、信仰をもちました。交通事故の後遺症のために職を失い、人生の無常さと人間の冷たさに悩んでいましたが、まことの神を知り、豊かな心の喜びを得られました。自分の価値をどこにも見出せなかった彼は、「私の目にあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と呼びかけてくださる創造主の声を聞いて、再び生きる力を回復したのでした。太陽よりもなお明るく心を輝かすまことの神を知ったのでした。

創造主である神様に教えられている人々はキリストのもとに導かれる可能性も高くなります。もちろん決定的な真理は聖書を通してキリストの福音を聞かなければ、信仰の確信を持つことはできません。自然界の中に神を見ることを一般啓示と言い、キリストの中に神を見ることを特別啓示と言います。キリストの福音が人を新しく創造する最も偉大な救いの力となります。けれども聖書は自然界の中にも神の存在を人は認めうることができると教え、神などは存在しないと主張する無神論や人間中心主義を打ち破ります。

聖書はまことの神は創造主なる神であり、私たちを愛しておられると教えます。偶像は人間が作り出したものですからこのような偉大さ、力、愛を持つことはできません。結局、偶像礼拝によってもたらされるものは、むなしい思いと暗い心です。「かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」(ロマ1:21)

思いがむなしくなるとは、その人の考え方に空しさがはいりこみ本当の意味や価値がわからなくなってしまうことを指します。暗い心とは、道徳と生活における混乱や腐敗や堕落(26−31)を指すと考えられます。簡単に言えば、まことの神を見失うことによって、虚無と愚かさとだらしなさがその人の心と生活にはいりこんでしまったのです。興味深いことにだらしなさのだらしの語源は「しだら」がひっくり返ったそうです。「しだら」はサンスクリット語で「秩序」を表すス−トラからきているそうです。秩序の源である創造主を抜きにしては、ものごとが「ひっくり返ってしまい」「だらしくなくなってしまう」のです。基準がなくなれば、何を尺度にして生きていけばいいのかわからなくなってしまいます。秩序を失えばバラバラになってしまいます。ですから聖書は神の創造の秩序の中に生きることを教えています
「主を知ることはあらゆる知識の始まりです」
「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えなさい」
この人生においてまことの神を知ることはまさにすべての「始まり」となるのです。

「創り主こそ永遠に褒め称えられるお方です」(25)とあるように、偶像礼拝からまことの神様への礼拝へ、偶像礼拝からまことの神様への礼拝の賛美あふれるまことの霊的な礼拝に導かれることはキリストが導きいれてくださった祝福です。イエス様はかつて、偶像の町サマリアにおいて一人の女性を、霊とまことによる真実な神への礼拝に招かれました。そして彼女の心の渇きを癒してくださり、破れていた彼女の人間関係を回復してくださいました。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
                          (ヨハネ4:13−14)

1億2千万人の日本人の中で、礼拝出席者は60万人、信徒は120万人と言われていますが、総人口の1%弱です。お金と物質的には最も豊かでありながらアジアの国々の中でもっとも伝道が進展しない国が私たちの住む日本です。日本からささげられるまことの神様への讃美の声はおどろくほど小さく悲しいほど低いのです。

私たちの愛する人々が偶像礼拝から救われ、まことの神様に礼拝をささげる日が来ますように祈りましょう。

                                             

祈り

私たちを偶像礼拝から救い、永遠なる神、創造主なるまことの神を礼拝する礼拝者として招いてくださった恵みを心から感謝いたします。私たちが一人の真実な礼拝者として整えられあなたに仕え、あなたの臨在を深く想う者と導いてください。ア−メン。

     

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