4 ロ−マ人の手紙  題 「世界を変えた福音の再発見」   2002・10・2 ・・

信仰による義人は信仰によって生きる・・・

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は信仰に始まり信仰に進ませるからです。
「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。」 (ロマ1:17)

先週、私たちは教会が福音を宣教する目的は、やがて完成する「神の国の民」を世界中から召集するという神の壮大な御計画に仕える事であり、希望に満ちたチャレンジであることを学びました。ですからパウロは、私は福音を恥とは思わない、むしろ私の誇りであり希望であると語りました。今日の箇所で、パウロはさらに、その福音の中味、福音の本質について語ります。福音の中には「神の義が啓示されている」ので、福音を信じる者はその「信仰によって神の前に義と認められる」という真理をパウロは見出したのです。「義人は信仰によって生きるo dikaiosek pistews zhsetai(ハバクク2:4 ロマ1:17)という旧約の預言者ハバククのことばの意味を新しく発見したとき、このことばはユダヤ教徒として生きていたパウロに完全な終止符を打ちました。このことばはキリスト教会がユダヤ教から分離した決定的なことばとなりました。そして約1600年後に、中世カトリック教会からプロテスタント教会が誕生する決定的なことばともなりました。まさに「信仰による義人は生きる」(口語訳)という1句は世界の歴史を変えたことばでした。そして神様は、このことばによってあなたの人生が変わることを願っておられます。

1 律法から信仰へ

預言者ハバククが「義人は信仰によって生きる」と語ったとき、彼は、「義人は律法を守りぬくその忠実な信仰によって生きる」と理解していたと思われます。モ−セに与えられた神の戒めは合計613あり、それらの戒めを厳守する人々が義人であり、永遠のいのちを得ることができる人々だと考えられていました。ですから熱心なユダヤ教徒にとって、信仰とはモ−セの戒めに対する忠誠心と同義語でした。

「義とされる」という用語は神様との正しい関係に生きることを指すことばですが、旧約時代の人々にとって神様との正しい関係に生きることは、モ−セの戒めや戒律に忠実に生きることに他なりませんでした。ところがパウロはこのことばにまったく新しい意味を見出しました。律法を守る人々が義人と呼ばれるのではなく、信仰に生きる人こそがまさに義人と呼ばれるのであると。つまり口語訳聖書のように「信仰による義人は生きる」と読んだのです。そしてその信仰とは、イエスキリストの十字架と復活の出来事において明らかにされた神の救いを信じること、つまりイエスキリストの福音を信じることなのだと理解したのです。

パウロはこの発見を「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち信仰に基づく神からの義を受ける」(ピリ3:9)ことであると端的に説明しました。りっぱな行いをもって自分の正しさを主張するのではなく、ただ十字架の罪の赦しを信じることによって神様から義を受け取らせていただく。神が罪人の罪を赦してくださることに救いの望みを託したのでした。ですからパウロは、「義人は信仰によって生きる」というよりは、口語訳聖書のように「信仰による義人は生きる」とハバククのことばを読んだのではと思われます。

今から485年前、パウロと同じような経験をした一人の修道士がいました。ドイツのウッテンベルグ大学教授であり厳格なアウグスティヌス派の修道士であった34歳のマルチン・ルターです。1517年10月31日、ルタ−はウッテンベルグ城教会の扉に「95か条の質問状」を掲示し、教皇庁の姿勢を糾しました。財政危機に際して教皇庁が免罪符を売り出したことにルタ−は抗議したのです。カトリックの伝統的教義によれば、罪人は罪を司祭に告白することによって永遠の刑罰から救われるが、教会が定める償いをしなければ現世における刑罰から救われません。教会にはキリストと諸聖人によって蓄積された有り余る功徳があり、信者に分け与える権限がある。それが免罪符でした。このような免罪符は貧しい人には無料で与えられましたが、財産や社会的な地位によって求める人々に異なる値段で売られました。

ルタ−はこうした行為が聖書から逸脱していると強く非難したのです。ルタ−によれば、悔い改めとは罪の告白や償いをすることではなく、罪に染まった古い人に死んで新しくキリストにあって生きるという人生の方向転換を意味しました。赦しをもたらすのは諸聖人の功徳ではなく、キリストの十字架の血であり、神のめぐみであると主張したのです。このようなルタ−の主張はカトリック教会の聖職制度や神学を根底から覆す革命的な提言でもあり、教皇レオ10世はルタ−を危険思想の持ち主として破門し、彼の著書を焼き捨てるよう命じました。一方、ルタ−を支持するドイツ諸侯や民衆によってルタ−の改革はプロテスタント運動としてやがてヨ−ロッパ全土に拡大しました。

ルタ−の主張は「信仰のみ」「聖書のみ」「万民祭司」という3つのことばに要約できます。第1に、人は「信仰によってのみ」神の前に義とされ永遠の滅びから救われる。自分の善行によってではなく、諸聖人や聖母マリアの功徳によってでもなく、ただキリストの十字架の血によって完全な赦しと救いはもたらされる。第2に、「聖書のみ」が信仰の唯一絶対の基準であり、ロ−マ法王や教皇庁のことばを神のことばと同一視することはできない。第3に、さらに神の前にはすべての信徒は平等であり、聖職者と平信徒の区別はなくすべての信徒が祭司として神に祈り、神に奉仕することができる。このような「信仰のみ」「聖書のみ」「万民祭司」という宗教改革の原理を福音主義と呼び、すべてのプロテスタント教会の基本的神学基盤となっています。
「ただ神の恵みにより、キリストイエスの購いのゆえに価なしに義と認められるのです。」
                  (ロマ3:24)

明治時代に活躍した内村鑑三は、「あまりに良すぎる使信(福音)なので」人々は、信じることにかえって躊躇してしまうと言いました。私の妹が求道中にたいへんとまどった表情で「さんざん悪いことをして神様に背いてきたのに罪を償わなくてもいいの。赦されるだけでいいの。かえって心苦しい。何かしたほうが楽だけど。」と私に質問したことを思い出します。「何かして償わなくては」心苦しさを覚えるというのは人として自然な思いです。しかし、何かして自分で償わなければならないという思いを突き抜けたところに神の恵みが広がるのです。ちょっと何か償いをして自己満足してしまうよりは、徹底的に何もできない自分を知り、その先に神の赦しと救いを見出すことが福音に生きることなのです。

2 信仰に生きる生涯

内村鑑三は、政治家は政略によって生きる、商人は利益によって生きる、軍人は武力によって生きる、学者は知識によって生きる。そしてキリスト者は信仰によって生きるのであると言いました。彼のことばを引用しましょう。「義人は信仰によって生きるのである。信仰のみに生きんとは我らの堅き決心でなければならない。信仰のためにいかなる不利益に陥り、いかに多くの犠牲を払うとも、これをもって一生涯を貫かんとの強固なる覚悟はクリスチャンの日常の所有物でなくてはならない。「悪の幕屋におらんよりはむしろ我が神の家の門守とならん」「涙の谷をすぐれどもそこを多くの泉あるところとなす」ことを切に望まなければならない。われらはいかなる職業につこうとも「信仰によりて生きる人たらねばならない。」(内村鑑三 第16巻ロマ書研究 p83−84)。信仰によって救われた義人はその後の日々の生活もまた信仰によって生きるのだという明治時代のクリスチャンの気骨を感じます。

私たちはクリスチャンとして生きる道を選びました。日曜日だけクリスチャン、後は気ままに好き勝手なことをするわがままなボッチャンやオジョウチャンとして生きるのではありません。私たちには地上の生涯を、日々の生活を、ひとつひとつの出来事を律法によってではなく、信仰によって判断しながら生きることが求められています。たとえば献金について信仰によって生きるという視点から考えてみましょう。

律法によれば収入の1/10を神にお返ししなければなりません。ユダヤ人はそうします。それを守らなければ神のものを盗む罪を犯すことになりますから裁かれて祝福を失います。ところがどんなに感謝することがあっても1/10以上を奉げることはできません。それも罪となるからです。一方、律法ではなく、信仰によって献金をささげようとする場合、感謝の心から自由額をしかも各自が自ら判断して喜んでささげます。その場合、他のクリスチャンはいくらしてるかな、横並びにしておこう!などと町内会の赤い羽根の募金みたいに考えません。感謝の心で奉げるべきだから、感謝することが余りないのでささげられませんと変な理屈をこねることもしません。聖なる神様への良きささげものが自分の趣味や習い事の費用以下、グルメ代やブランド品以下ということなどもありえない発想です。神の恵みを十分に知らない旧約時代の人々でさえ1/10を奉げたとすれば、恵みに生きる私たちがそれ以下であってはならないと信仰に生きるクリスチャンは発想します。もちろん発想しても現実は厳しいものがありますからそうはならないとしても、少なくともそのような前向きの発想、神様のために最善の奉げものを差し上げようという天を見上げる思いが信仰を通して働きはじめてきます。信仰に生きるとはそういうことなのです。

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」(コロサイ3:1-2)

閉塞感の漂う現在、地上のもの人間的なものにとらわれていると、信仰によって天に向かって生きるのではなく、この世の沈滞ム−ドの霊にからみとられ後ろ向きで否定的な思いに支配されかねません。

若き日のルタ−は、福音に生きる信仰を知りませんでした。厳格な父親に育てられたルタ−にとって神様はずっと恐ろしい裁き主に思えました。大学生時代、友人の突然の病死に直面して以来、死の恐怖に支配されていました。さらに雷雨の中で雷に打たれ「この雷から救われたら修道士になります!」と思わず祈ったことが契機となり修道士となりました。大学教授となり聖書を学生に教えながらも彼は自分の罪深さに激しく苦悩します。救いがわからなく平安がなかったのです。「純粋な愛とは、相手の為に愛することであり、不純な愛とは自分のために相手を愛することではないか。そうだとすれば、修道士にまでなった自分とはいえ、それは純粋に神様を愛しているからではなく、死の恐怖からのがれるためであり、自分自身の平安のために神様を利用していただけではないか」と、自分の罪を認め、もはや行いによっては義とされないことをはっきり自覚しました。ここになお救いがあるとすればこのような罪人を無条件で赦す純粋な愛以外にはない。そしてその愛と救いをルタ−はイエスキリストの福音の中に見出したのです。キリストの十字架の愛だけが他者をその人自身のために愛する純粋なものだったからです。以来、彼は自分の神学を十字架の神学と呼ぶほど、キリストの十字架とその恵を仰ぎ見るものとなりました。

かつては神の裁きにおそれ慄いていたルタ−でしたが、信仰によって義とされる恵みを知った時、「私にとってロマ1:17節のことばはパラダイスに至る門となった」と述べています。律法から解放され信仰による自由を得たルタ−は、「キリスト者の自由」という名著を表し、「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であり、誰にも服さない。キリスト者は自由な奴隷としてすべての人に仕える」と記しました。42歳の時にカタリ−ナというシスタ−と結婚し、家庭と子供をこよなく愛しました。教会に集う子供たちのためにも多くの賛美歌を作り、信仰によってキリストとともに生きる喜びを生涯楽しみました。

内村鑑三は「信仰による義人は信仰によって生きるのです。」と訳しています。最も適切な訳だと私は思います。キリスト者は、信仰によって救われ、信仰によって今を生き、信仰によってキリストの御国を待ち望むのです。福音はパウロを新しくし、ルタ−に自由を与えました。そしていつしか人間的な功績主義やの「ああしなければこうしなければ」という完全主義と律法に絡め取られてしまいがちな私たちにも信仰に生きる自由と喜びをもたらします。日々の生活に追われ、ついつい神様をないがしろにしたり、優先順位を後回しにしてしまいがちな私たちに目覚めと緊張感をもたらします。「信仰がなくては神に喜ばれることはできません」(ヘブル11:6)と教えられているように、恵みに満ちた神は私たちに手の業、肉の業ではなく、信仰を求めておられます。この世の人は信仰がなくても生きてゆきます。けども私たちは信仰から信仰へと歩み続けてゆきたいものです。

                                           

祈り

天の父なる神様、宗教改革記念日の礼拝に集う私たちに、「信仰による義人は生きる」との、みことばをもって励ましを与え慰めてくださったことを感謝します。この世の人は信仰がなくても生きてゆきますが、私たちは信仰によって生きてゆきことを志しています。わたしたちを律法に根ざした行いによる信仰から福音に生きる喜びの信仰へと歩ましめてください。パウロのように、ルタ−のように、そして多くの神のしもべたちのように、自由な心をもって主と教会に仕える者と導いてください。ア−メン。



     

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