6 ロ−マ人の手紙  題 「空しさと心の暗闇から解かれて」2002/11/24

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。    (ロマ1:25−31) 


来週からクリスマスアドベント(待降節)にはいります。クリスマスのイメージの一つは闇の中に輝く光のイメージではないでしょうか。キャンドルやツリーやイルミネーションなどが夜の暗闇に輝くとき、見る人々は安らぎや希望を与えられ、あたたかい気持ちにつつまれます。今、私たちの国はオイルショック以来の大不況に見舞われ苦しんでいます。国際的にも国内的にも社会変化が激しく10年先が予測できないほどです。計画を立ててもすぐに軌道修正しなければならないほど急激に変化し続けていますから将来図が描けないとも言われています。

経済的な苦しさから自己破産をする人々が急増し裁判所の事務が追いつかないそうです。生活苦のために高校や大学を中退せざるを得ない若者たちや、家を手放したり、一家心中を図るという自殺者も増えているそうです。深刻な不況と言う暗闇が日本社会を覆っています。今年のクリスマスが苦しみの中にある多くの人々の慰めと希望となり心の光となるようにと願っています。

1 虚無と心の暗闇

さて、パウロは、経済不況よりもさらに深刻な暗闇について語ります。それは、まことの神を見失いさまざまな偶像を神とする偶像礼拝から生じてしまった霊的な暗闇についてです。[思いは空しく、その無知な心は暗くなった](21)と記されているような、空しさと心の闇、つまり「虚無感と堕落」の実態について語ります。思いの空しさとは、人生に意味を見出せない心の空虚さを指します。

創造主である神が世界を造られたとき、「はなはだ良かった」と世界を祝福されました。ですからそこには本来、空しさや神様との不調和などは存在しませんでした。ところがサタンがアダムを誘惑し、神の戒めよりも自らの判断をよしとする高ぶりの罪、自己神格化の罪に陥しいれたときから、アダムの生活に空しさと堕落が始まり、アダムの子孫を通して全人類にまで蔓延してしまいました。罪をおかしたアダムは[あなたはどこに居るのか]と神に呼びかけられても答えることができず、逃げ隠れしなければなりませんでした。世界の中心である神から身を隠せば自分の居場所がわからなくなり空しさがつきまとうことはさけられません。太陽が頭上にあれば人の影は一番小さいのですが、太陽が西に遠く傾けば人の影も大きくそして濃くなるように、神から遠く離れれば離れるほど空しさは増し加わってくるのです。

生きてゆくことのつらさやしんどさと生きてゆくことの空しさとは異なります。疲れは良く寝て休めば取れるかもしれません。どんなに疲れていてもお帰りなさいという奥さんの一言や子供たちの笑顔で吹き飛ぶこともあります。生活の厳しさもいつか景気が回復すれば良くなるでしょう。どんなに厳しいと言ってもアフガニスタンや北朝鮮の人々の生活水準に比べれば私たち日本人ははまだまだ雲の上の生活をしています。けれども、生きることの意味がわからなくなり、自分の価値が見出せなくなったときに自分を立て直すことはほんとうに難しいことです。かつて田原米子さんが高校時代、生きる意味を見出せず悩み苦しんだとき、図書館で無神論哲学者ショペンハウエルの本を読んで自殺を決意したそうです。そこには「人生にはじめから意味などはない。人類にとって最高の幸福とは生まれてこなかったこと、次善の幸福とは一刻も早く死んでしまうこと」と記されていたそうです。なんと悲しく空しいことばでしょうか。そこにはいのちのことばがないのです。そしてそれがまことの創造主である神とその愛を知らない人々の行き着く先でもあるのです。

まことの神を知らない異邦たちに、最大の罪である偶像礼拝は6−27節に記されているような自然の摂理に反する性的な倒錯と29−31節に記されているような21にも及ぶ心の堕落をもらしました。

同性同士や動物とのセックスはユダヤ人には考えもつかない汚れたことでしたが、ギリシャ・ロ−マ世界では日常的なこととされ、むしろより高次元の愛のあり方と受け止められていたようです。他民族でも非難の対象にはなりませんでした。しかし旧約聖書は堅くこれを禁じました。

「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も動物の前に立って、これと臥してはならない。これは道ならぬことである。あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。」(レビ18:22−23)

動物の世界は「自然の用」と訳されていますが、創造主である神によって定められた自然界の秩序によって支配されています。種類の違う動物間の性行為はありえません。繁殖期にだけ子孫を残すために性行動をとります。このように彼らの営みは創造の秩序の中に保たれています。ところが人間だけが秩序を破るのです。「何をやっても自由だ」という誤った人間の考えが影響してしまったからです。動物は自然の法則の中で営みますが、人間は「自由」に基づいて行動します。確かに私たち人間は「自由に生きる」という特権を持っています。他のなにものかによっても力づくで支配されることは屈辱であり、人間の尊厳が大きく傷つけられることですから、自由を求め自由を喜び、最高の価値を自由におきます。ところがしばしば自由は乱用され誤用され、放任や放縦、はては「カラスの勝手でしょ」になりかねません。

私は小学生の頃、中学生が「個人の自由だ」ということばを使っているのを聞いてかっこいいと思いました。ある時、八百屋さんの裏庭でみかん箱や古タイヤなどをひっくり返して遊んでいたのですがひどく叱られました。すると大声で「うるさいな。個人の自由だ」と言い返した覚えがあります。たぶんぶんなぐられたと思います。

哲学者のサルトルは「人間は自由へと処刑されている」と言ったそうです。人間は本当の意味では自由というものを自己支配できず、自由にされたらかえって身を滅ぼしてしまうというのです。自由にされることがかえって恐ろしい処罰なのだとサルトルは考えています。深い洞察だと思います。

欲望のままに[引き渡された](paredwmi他の力や支配に任せたの意味)ということばがここには3回(24,26,28)用いられています。好きなように放任された・・好きなように自由にやりなさいと手放された。しかしこれが異邦人の偶像礼拝に対する神の裁きだとパウロは教えます。人間は何をしても自由だが、その結果からは自由ではないことを明らかにしたのです。

神を知ろうとしないものは、ますます悪しき思いに引き渡され、雪だるま式に心が罪でぱんぱんに満ちてゆくと教えています。21のリストがあげられていますが、こうした堕落した心が、人間関を破り、最後は孤独をもたらし、空しさと無価値さの深遠へと私たちを引き込んでゆくのです。

悲しいことに、こうした腐敗と堕落は社会の力では防ぐことも浄化することもできず、むしろ社会そのものがこうした風潮に同調し助長しますます拍車をかけてゆきます。「それを行うものに心から同意しているのです」(32)と指摘されているように。特に視聴率をとるためにはなんでもありのたれ流し状態となっている日本のテレビ番組の質の悪さに心痛めている人々は数少なくありません。

このような虚無感と腐敗と堕落が歯止めなく進む社会の中で、私たちはどのように支えられ、どのように生きて行けばいいのでしょう。パウロは暗闇に閉ざされた私たちに、光を掲げます。「福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも信じるすべての人にとって救いを得させる神の力です。」(ロマ1:16)と、キリストの福音の光をパウロは異邦人の闇の世界に高く掲げるのです。

2 闇に輝くまことのいのちの光

イエス様は「私は世の光です。私に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)と自らがまことの光であることを力強く宣言され、闇からの解放者であることを約束されました。お金の力も、政治的な権力も、教育学問の力も、心の暗闇を照らすことはできません。自由にお金が使え、自由に権力を行使することができるならば、おそらく100人中99人は、その自由であるはずのお金と権力で自らを滅亡させてしまうのではないでしょうか。イエスキリストに従い歩む信仰の中に、まことの自由がありまことの解放があり、まことのいのちの光があるのです。

Y兄から今年創業40周年になる会社の記念誌を頂きました。320ページもある記念誌ですが2時間ほどで一気に読み終えてしまいました。創業者で今年85歳になるお父様は奥様とたった2人で借家の4畳半から仕事を始め、苦労を重ね、試練を乗り越えながら会社を大きく発展させてこられました。しかし40年間の歩みを一番支えてくれたのはキリスト教の信仰であったと自らの証しを記しておられます。

子供さんたちが教会に行き奥様が教会に行き、狭い家の中で日曜日は教会から帰ればみんなで信仰の話ばかり、自分だけ置いてけぼりにされるのは寂しいと教会に通い始め、47歳で信仰をもたれたそうです。仏教の家で生まれた長男のため先祖を守らなければならない立場。ある日、改めてお寺に行って偉いお坊さんに「阿弥陀如来とはどのようなお方なのですか」と真剣に聞いたら、「仏の世界をあんたが理解できるように説明するのはなかなか難しいんや」と言われ、結局納得できなかった。教会の牧師に「キリストとはどんなお方ですか」と聞くと、「我は道なり真理なりいのちなり」と即答され、これぐらいすばらしい柱はないと心にすっと入り信仰の決心をされたそうです。「神様の御手によらなければ何もできない。」この信仰をもって幾度の試練を祈りつつ乗り越えてこられたと証しされています。

まことの神を知らないで空しい神々の世界の中に生きている私たちの暗い心にも、イエスキリストは光となって輝いてくださるのです。21ものリストがあげられている悪しき罪は、私たち生まれながらの人間の心に例外なく根深く巣食っています。私はそんなこと決してありませんと、誰一人反論することなどできないと思います。けれどもそんな愛のない冷たい私たちもその罪、汚れを赦され、解放され、御霊の結ぶ愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制と言ったイエス様のお心を頂いて生かされて生きる者と成長させられているのです。それは神の恵みにほかなりません。

実は教会が開拓を始めた当初、信徒さんも少なかったので給食屋で調理と配達のアルバイトをしていました。「牧師さんは人と話すのが得意やから配達せんでいい。今日から営業してくれ」と言われました。牧師にもいろいろあると言いましたが許してもらえずしぶしぶ営業部長の名刺を作ってもらい営業に出ました。初めての経験でどうしたらお客をとれるか悩みました。自分なりに考え、パンフレツトを手作りで作製し、見本の弁当を4種類ほど作ってもらい、大手の弁当屋が配達している後を車でつけて、かたっぱしから飛び込みで営業しました。「見比べてください。うちのほうがおいしいですよ」とふたを開けさせてもらったところ相手のほうがおいしそうで逃げ帰ったこともありました。敵を知ることになりコックに情報を伝えてお弁当の質がよくなったこともメリットでした。

ある時、クリスチヤンが経営されている会社があることを聞いてあつかましく飛び込み営業しましたが、そこがY兄の会社でした。お父様である社長自らが出てくださってよくお話を聞いてくださり、係りの者と相談くださいと親切に応対してくださったことを覚えています。飛び込みの弁当屋など相手にされず、いい加減にあしらわれてしまうことが多い中で、丁寧に対応してくださった心遣いがとても印象深く残っています。クリスチャンの愛と思いやりを身をもって経験しました。小さな事柄の中ににじみ出てくるやさしさや思いやり、それが人の心をとらえてゆくのです。キリストに生かされ、神様の愛に捕らえられているとはこういう姿をさしていると思います。

私たちもかつては、まことの神様の名も知らず、人間が作り出したさまざまな偶像を拝み、創造主なる神様に愛され、高価で尊いものとされているそんな恵みさえも知らずに、長い年月、空しさと罪の中に生きていました。今、こうして導かれてイエスキリストの十字架の赦しを受け、暗闇から光へと移されました。

21もの罪の力にとらわれていた暗闇の心にも神の愛は豊かな実を結び続けてくださいます。それは神の恵みいがいなにものでもありません。さあ、パウロとともに心から神を賛美しましょう。

「造り主こそとこしえにほめたたえられるお方です」(ロマ1:25)

                                 

      祈り

父なる神様、今年も御子の御降誕を待ち望むアドベントを迎えました。偶像礼拝から来る虚無と腐敗の暗闇からあなたは御子の十字架の血をもって私たちを救い出し、恵みと光の中に解放してくださったことを心から感謝します。今年のクリスマス、あなたの御名と栄光がこの暗い世界に輝き、救いを助け求め人々の心の光となりますようにと心から願います。教会の宣教の働きを祝し、私たち一人一人の証しを祝してください。アーメン。

     

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