41 ロ−マ人の手紙  題 「異邦人の完成のとき」 
2003/10/19

聖書箇所 ロマ11:25−29

「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」(25-26)  


聖書とイスラエル(10)


神殿の丘
                      

  

パウロは9章から続いたイスラエル問題を結ぶに当たって「奥義」を知っていただきたいと呼びかけています。イスラエルがキリストを受け入れず心をかたくなに閉ざしているのは「異邦人の完成の時」(25)までであり、その後に「イスラエルはみな救われ」(26)ます。というのは、神の「召しと賜物とは変る事がないからです」(29)と。こうして異邦人とイスラエルを含む全人類に対する対する神の救いの御計画は成就完成し、キリストの御国がついに到来するというのです。聖書によれば第1段階としてまず「異邦人の救いの完成」、第2段階として「イスラエルの救いの完成」を神は導かれます。

1異邦人の完成

かつてノアの時代、ノアは宣教しましたが誰もノアの忠告に耳を貸しませんでした。そしてついに箱舟が完成したとき天の窓が破れ大雨が降り注ぎ、地は大洪水で瞬く間に覆われ、不信仰な民はみな滅びてしまいました。箱舟の扉は神の手によって外側から閉じられてしまい、洪水が押し寄せてきたからといってもはや誰も中に入ることはできませんでした。この悲劇を2度と繰り返してはなりません。

箱舟は現代の教会の雛形とみなすことができます。神はすべての人が滅びることなくイエスキリストにあって救いを得るかとができるようにと忍耐してくださっています。無条件で救いの扉は開かれており、だれでもイエスキリストの十字架の罪の許しを信じ、イエスを救い主と告白する者は救われます。しかしそのような特別の神の恵みは「終わり」のときが来ることを覚えなければなりません。

神さまの異邦人に対する御計画が進展し、福音が世界中の人々に証され、教会に属するクリスチャンの数が満ち、神が良しとされる異邦人の完成の時が来たときに、教会は天に引き上げられキリストに迎えられます。これを教会の掲挙(1テサ417)といいます。ノアの箱舟が大水の上に浮かびあがったように、教会は天に引き上げられるのです。40日間洪水が地を覆ったように、教会の掲挙後、地上では7年間の大艱難時代が始まると聖書は預言しています。ですから異邦人の完成の時とは、「教会が天に引き上げられる時」であり、大いなる希望のときです。

2イスラエルの完成

神の召しと賜物のゆえに第2段階としてイスラエルはみな救われます。この短い言葉は解釈が多々分かれる箇所ですが、「クリスチャンの福音とユダヤ民族に関するウィローバンク宣言」では「私たちは聖書は多くのユダヤ人が神の主権的恵みを通してキリストに立ち返ることを約束していると主張する」(3-16)との立場を示しています。「ユダヤ人全員が一人の例外もなく」と読むには無理があると思います。さらに、ナザレのイエスを旧約聖書が約束している「メシア」として信じ受け入れることが条件になります。イエスキリストに立ち返る以外に第2、第3の道があるとは、聖書は決して教えていません。

大艱難時代を通じて、イスラエルは再び民族的な大苦難を味わいますが、イエス様はついに地上に再臨され、エルサレムのオリーブ山に立たれご自身をイスラエルに現わされます。かつてペンテコステの日にイエス様の弟子たちに聖霊が注がれたように、イスラエルの上に聖霊が注がれイスラエルの目が開かれ、ついに「イスラエル民族」はイエスをメシアと受け入れ民族的な回復を成し遂げます。これが「イスラエルはみな救われる」という預言が成就する出来事と考えられます。みことばに従いメシヤを待ち望むイスラエルの中のイスラエルはみな救いを受けることでしょう。ちょうど神殿で幼子イエスを抱きかかえた老シメオンのように、歓喜の声をあげながら。

3 イスラエルと教会

私たちは、野生のオリーブの枝でしたが神の恵みによって、イエスキリストの十字架の救いに預かり、罪の赦しと永遠の命を受け、神の民に属する祝福を受けました。キリストはイスラエルの中から生まれました。それゆえ私たちはイスラエルに感謝しなければなりません。旧約聖書を土台として新約聖書が成り立ち、しかも両者は一つで神の言葉であるように、教会はイスラエルを根としつつ、教会とイスラエルは本来、一つの神の民、御国の民として神の御心の中に存在しています。ですから、

1 教会はユダヤ人に対して行った迫害と差別の歴史的な罪を認識し、悔い改めなければなりません。まちがった聖書解釈がヨーロッパの教会をユダヤ人の迫害容認へと導いてしまいました。イスラエルを「キリストを殺した民」として憎み呪い、差別するような偏見にみちた反ユダヤ主義に組してはなりません。そのような傾向が強かったカトリック教会が、2000年3月にローマ法王がエルサレムを訪れて公式に謝罪したことは霊的に大きな意味を持っている出来事だと思います。

教会は「和解のため」の使者としてこの世におかれています。憎しみや怒りや差別があるところに教会はキリストの十字架の和解を届け、和解のために働く僕とされています。その教会が憎しみや怒りを周囲に撒き散らしてはなりません。イスラエルパレスチナ問題に対しても教会だけが真の意味で両者の和解のために仕えることができます。ユダヤ人もアラブ人もパレスチナ人もキリストを信じ十字架の信仰に生きる時にのみ歴史的な憎しみと敵意の連鎖から解放され、和解と共存の道を歩み始めることができると思います。なぜならキリストは「和解の霊」をもつ、平和の君だからです。銃弾に倒れたイスラエルのラビン首相の「回顧録」は、現実的な苦闘の中で平和的解決を志そうとする者の祈りと苦悶を表し、示唆深い問いかけを与えてくれます。

2 教会はイスラエルのために無関心であってはなりません。世界に離散しているユダヤ人が祖国に帰還しています。ちょうどナオミがユダヤに帰ろうとしたとき、異邦人のルツがナオミの帰国を支えたように、教会が愛をもってユダヤ人の帰還を援助するならば、それは神の御心に適うこととなるでしょう。ナオミを支えたルツが祝福されたように、主が喜ばれることをする者は祝福されることでしょう。

教会は「隣人への愛の奉仕」に生きる僕としてこの世に置かれています。相手がだれであろうと傷つき弱り果てている人の隣人となって愛を持って仕えることが教会の生きる道です。政治的に加担することを避け、敵味方と区別せず純粋に愛において仕える「ナイチンゲールの精神」を教会は保つことが大切だと思います。

先日、アフガニスタンに学校を建てるMGOの運動をしているイスラム教徒のサレヒ・スルタンさんを大学生の私の長男と仲間たちが教会に迎えて現地の話しをききました。去年、私たちは大阪女学院の学生さんたちと協力してチャリチ−コンサ−トを開きました。ささげた献金で学校も建てられましたが、完成して2ヵ月後にアメリカ軍のミサイルで破壊されてしまったそうです。タリバンのアジトと間違えられて誤爆されたためでした。彼はたいへん落胆されていました。米軍への怒りさえ露わにされていました。私は手をとって「壊されたらまた建てましょう、何度でも建てましょう」と励ましの言葉を贈りました。怒りや憎しみや破壊を克服するのは愛の力しかないのですから。そしてイエス様がそのことを十字架において明らかにしてくださったのです。

私たちの宇治教会も「異邦人の完成」にこの宇治の地で20年仕えてきました。そのご奉仕はこれからも続きます。主が私たちを天に引き上げてくださるときまで、「福音の宣教」と「神への礼拝」の奉仕は続きます。この働きには卒業も終わりもありません。あるのは、この良きわざを後の時代の人々にバトンタッチしてゆくこと、働きをつなぎ続け、灯火をけさないことです。

祈り

神の民に対する神様の御計画をいよいよ理解させてください。異邦人である私たちが「和解の使者」として「隣人への愛の奉仕」に生きるように、その志をひきあげてください。

                                      

     

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