42 ロ−マ人の手紙  題 「すべてを神の栄光に」  2003/10/26

聖書箇所 ロマ11:33−36

「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(36)  


聖書とイスラエル(11)


神殿の丘
                      

  

昨日は西の空がもえあがるような夕焼けで感動しました。あまり感動が大きいと声が出ないものです。かつて俳人・松尾芭蕉は仙台の松島を訪れたときその美しさに感動し、「ああ、松島や、松島」と歌ったそうです。

1 神様の御心の深さを知った感動

パウロは神様の人類に対する救いの御計画、神のマスタ−プランを知り感動しました。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。」(33)と、湧き上がる感動を表しています。直訳すれば「オ−オ、深遠なるかな」という意味になります。パウロはイスラエル問題を神様に問う中で、人知を超えた神様の御心の深さを理解できたのです。信仰生活とは活ける神の深い御心を知り感動し、感謝と喜びにとらえられる経験の積み重ねでもあります。

日本語で「海よりも深い」と表現しますが、どんなに深い海でも必ず海底があります。底が存在します。しかし、天を見上げるならば、底がなく無限の宇宙空間までつき抜けてゆきます。パウロは天の神様を見上げるときいつもそのような深みに導かれたことでしょう。

旧約時代の偉大な王ソロモンも神の御心の深さを告白しています。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」
(伝道3:11)

私たちの限られた知恵や知識では決して計り知ることができないほど深い神様の御心ですから、私たちには「知り尽くす」ことではなく、「信じ信頼する」ことが求められています。

2      すべては神を中心として

人はみなある種の「人生観」をもって生きています。その中でも因果論と円環論は多くの人々の心をとらえています。

1  因果論とは、「すべての結果には原因がある」から、原因を解明することによって結果を変えることができるという合理的な思考パタ−ンのことです。たとえば病気になれば医者に行き、レントゲンやMRAなどの各種の検査をうけて原因を見つけようとします。もちろん、1つの結果は1つの原因に起因するとは限りません。むしろ複数の原因が重なり合って複合的に結果を引きおこす場合も多くありますから、ことはそうかんたんではありません。仏教ではこのような複合的な原因の絡みあいを「縁」と呼ぶそうです。家族問題に関すれば、先祖の悪縁が災いを起こすとよく耳にしますが、「因果論」で考えれば、「遺伝子」や「世代間伝達」「家族システムや地域的環境」が要因とも考えられます。いずれにしろ因果論的思考は非常に科学的合理的な考え方といえます。

さて、因果論は原因を徹底的に追究解明しようとしますから、諸刃のつるぎのような面を持ち合わせています。一方では科学や技術を大いに発展向上させてきました。しかし一方では「犯人探し」をするわけですから他者を激しく非難したり容赦なく罰したり裁いたりします。かつては問題児童の原因はすべて「母親のかかわりに問題がある」と強調され「母原病」なることばさえも造られた時代がありました。因果論が自分に向けられその結果、すべての原因は自分にあると自責感で自分を攻め立て、苦しめてしまうことさえおきてしまいます。

2      円環論とは、「始めも終わりもない円環的思考」を意味します。たとえば季の移り変わりのように冬が過ぎれば春が来て春が過ぎれば夏が来ます。こうして季節は終わることなくいつまでも繰り返します。移り変わる円環的無常観は日本人のメンタリティ−にはフィットします。中島みゆきの名曲「時代」は、「まわるまわるよ、時代はまわる。喜び悲しみ繰り返し」と移り変わる円環的変化が情緒豊かに歌われています。

円環論には「原因・結果」という図式はありません。春は冬が去った結果ですが、同時に冬が去るための原因でもあります。交互に原因と結果の関係になっています。母に愛がないので子供が泣くのか、子供が泣くので母に愛が薄くなるのか、原因と結果が実は相互作用を起こしていると理解することのほうがより真実に近いと考えられます。

ですから円環論では、原因の究明よりは、今おきている状況を受け入れてゆくことが重要視されます。仏教では本来こうした態度を「諦め」と言います。諦観は人生において大切な自己能力です。私たちの人生には、避けられないこと、受け止めて行かなければならないこと、いい意味でそのまま受容してゆかなければならないことが多くあります。何とかしようともがけばもがくほど、あせればあせるほど精神的な葛藤や苦悩が強化されてしまいます。受容すること、やりきれなくつらいことだけれどあきらめるべきことは「諦める」ことも実は「人間的な大きな力」なのです。

このように考えると、避けたいと願う嫌なことも人生の一部であり、かけがえのない大切な一部であり、悪として排除すべきものとは必ずしも限らないとの視点が生まれてきます。ですから円環的思考は思索的で意義深い思考方法といえます。身に着けてゆくことができるならば落ち着きと深みが生まれることでしょう。

しかし円環的思考にも欠点があります。たとえば、因果論のように原因を究明して、さまざまの悪しき制度を社会改革してゆこうとするエネルギ−はなかなか起きてきません。あるいは「諦め」が「虚無」に変質しかねません。むなしさが人生を無意味で無力なものと変えてしまい、生きる希望を奪い取りかねないからです。

3       神中心の人生論

 さて聖書は、「因果論」でも「円環論」でもない、「人生観」を教えています。人生観というよりは世界観といってもよい広がりを持っています。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」という「神中心論」です。「神中心論」には、原因-結果だけでは割り切れない問題、諦めるだけではつらい現実を乗り超えられない問題を解決する力があります。すべてはパウロが「ああ、深いかな」と感動した神の深遠な御心から生み出されましたから、それゆえに「意味」があり、「目的」があります。すべては無目的に無秩序に起きているのではなく、神の真実な愛によって「導かれ」「構成され」成り立っているのです。やさしいことばで表現すれば「織りあげられている」のです。そしてはっきりとした「目標」「終着点」「完成」が用意されています。

神の存在を抜きにした何もない無の世界では、人格的な神との出会いがありません。そこには神様との触れ合いも交わりもありません。祈ることも語り合うこともありません。因果を超えてしまう絶対的な愛や赦しを見出すさいわいもありません。神という座標軸を欠くならば混沌とした無秩序と光のない闇が私たちを待っているだけです。

神を中心とした人生観に立つときに、私たちは因果や宿命や虚無から解放され、希望にみちびかれる確かな人生を歩むことができるのではないでしょうか。すべては神の深い御心から創造され、愛によって守りぬかれ、神の主権によって完成へと導かれているからです。そのことを思うとき、私たちは誇ることや自己宣伝することなど何一つないことにきづかされます。神の御前にただひれ伏し、恵みをほめたたえるいがいになにができるというのでしょう。ここにいたってはじめて私たちから、すべての栄光を神様にささげる真実な礼拝が生まれ、私たちは真実な礼拝者として御前に立つのです。

「どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(36)

                    祈り

主よ、すべてはあなたから出ていることを思い、あなたをまず第1に求めることを得させて下さい。どんな困難な中にあっても、信仰と希望と愛が私たちの人生を先導し織り成していることを見させてくださり、それゆえに私たちがあなたをほめたたえることを導いてください。

                                      

     

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