40 ロ−マ人の手紙  題 「神の民のル−ツを探る」 
2003/10/12

聖書箇所 ロマ11:15−24

「初穂が聖ければ粉の全部が聖いのです。根がきよければ枝も聖いのです。」(18)  


聖書とイスラエル(9)


神殿の丘
                      

  

神の国の住民となる神の民を、パウロは今日の箇所で「栽培されたオリ−ブの木」にたとえています。かつてユダヤ人は「栽培されたオリ−ブの木=神の民=イスラエルのみ」と自負していました。しかし神様の御心は深く慈愛に満ちており、確かに「イスラエル=神の民」でしたが、「神の民=イスラエルのみ」ではなかったのです。

オリ−ブの木の枝の多くは「不信仰」のゆえに切り落とされてしまいました。ユダヤ人の最大の不信仰とは「神が遣わされた救い主キリスト」を受け入れようとしないことでした。そのため裁かれ木から枝は切り取られてしまいました。しかし神様はかれらを、神の約束のゆえに終わりの日に、「イエスをメシヤと信じる信仰」に立ち返らせ、「再びつぎあわ」(23)せてくださいます。もともとユダヤ人は神様の「自分の台木」(24)ですからオリ−ブの樹につながれやすいのです。

一方、まことの神を知らず偶像を拝む異邦人は「野生のオリ−ブの木」にたとえられています。野生のオリ−ブの木からある枝が切られ、栽培種のオリ−ブの木に接ぎ合わせられました。根から養分を受け接木された枝は広く伸び、豊かな実を結ぶようになりました。

接木された「野生のオリ−ブの木」とは、具体的にはキリストを救い主と信じ、告白し、バプテスマを受けた異邦人クリスチャンを指します。彼らは個人的には「神の子」と呼ばれ、その信仰の共同体は「教会」エクレシアと呼ばれました。新約聖書においては「神の民」という民族的なイメ−ジよりは「神の家族」という人格的な交わりが強調されましたが、それはイエス様が神を「天の父なる神様」として弟子に啓示されたこととも関係していると思います。

栽培種のオリ−ブの木に接ぎ合わせられた野生のオリ−ブは、その枝を大きく広く伸ばし実を豊かに結んでいます。今、世界で10億人以上のクリスチャンがいます。遠い日本の地にも100万人のクリスチャンがいます。隣国の韓国ではなんと人口の32%がクリスチャンであり、世界最大のキリスト教国となっています。パウロがこのことを知ったならば驚きを超え、腰を抜かすのではないでしょうか。

欧米のキリスト教というイメ−ジがありますが、すでにクリスチャン人口から言えば、キリスト教はアジアの宗教になっています。世界宣教の働きはこのように全世界に拡大し、豊かな実を結んでいます。

このように祝福された異邦人への宣教ですが、祝福にあずかった私たちクリスチャンは「旧約聖書と新約聖書」との関係のように、「イスラエルと教会」との関係を正しく理解しなければなりません。パウロは「誇ってはなりません」(18)、「高ぶらないでかえって恐れなさい」(20) と、異邦人に謙虚さを求めています。謙虚さとは相手を正しく理解しようとするところから始まります。

かつては「神の民=イスラエルのみ」というユダヤ教側の偏狭な考えがあり、政治的な民族主義、国家主義と結び付けられてしまいました。彼らは異邦人を「犬」と呼んで軽視しました。今日でも国粋主義的なユダヤ人の中には、いわゆる「大イスラエル主義」を掲げる政治集団が存在しています。

一方、欧米の教会では、「神の民=教会のみ」という考えが支配的となっています。イスラエルということばは「霊的な意味ですべてのキリスト者をさす」ものと解釈します。ですからユダヤ人も救われるべきひとつの民族であり、世界宣教の1部門であると彼らは考えます。そしてできれば改心したユダヤ人は、ユダヤ教的ル−ツを捨てて、欧米のクリスチャン文化や慣習を受け入れ、十字架を掲げた会堂で欧米的伝統的な礼拝を捧げることが期待されるのです。なぜなら、クリスチャンとなったユダヤ人はユダヤ教徒ではないので、ユダヤ人という旧約的民族性は放棄されるべきだと求められたのです。今、そのような解釈や対応に対して疑問が提示されています。このように、イスラエルは異邦人を排除し、教会はユダヤ人を排除してきた過去の歴史は見直されなければなりません。

神が願われる「オリ−ブの樹」の枝は、「イスラエル」と「異邦人キリスト者」であり、ナザレのイエスを「メシヤ」と信じる「ユダヤ人会衆」と、ナザレのイエスを「キリスト」と信じる「異邦人教会」です。教会と訳されたことばを本来の「エクレシヤ」つまり「召し集められた人々」の意味で理解するならば、ユダヤ人会衆と異邦人会衆がひとつとなって、「真の教会」終末的にいえば「神の民」が完成するのです。神の民という言葉には、イエスをメシヤと信じる「ユダヤ人」と、イエスをキリストと信じる「異邦人」がともに含まれます。そうでなければ神の国は完成しないのです。

中世カトリック教会時代以来、ユダヤ人はキリスト教会から迫害されてきましたので、教会のシンボルである「十字架」に対する恐怖感があり、十字架にはなじめません。深い民族的な歴史的トラウマがあるからです。それゆえユダヤ人クリスチャンは「教会・チャ−チ」ではなく「会衆・コングリゲ−ション」と呼ばれる信仰の共同体を組織しています。現在イスラエル国内におよそ5−6000人の会衆が存在していると報告されています。

私たちクリスチャンは、神の民とは、イエスを信じるユダヤ人会衆とクリスチャン教会から成り立っていると理解しましょう。そして、ユダヤ人会衆(メシヤニック・ジュ−)と呼ばれる人々に対して執り成しの祈りを捧げてゆきましょう。彼らはイスラエル国内で公に自由に伝道することは認められていません。もし取締りを受け処罰されれば、国籍剥奪が課せられるとも聞いています。正統派ユダヤ教支持派を中心にして厳しい取締りを求める法案が繰り返し国会に上程され続けています。メシヤニックジュ−と呼ばれている「残された者」たちが守られ、役割を果たし、希望の光として輝くことを私たちは祈り支えてゆく、そんな時代に今生かされているのです。

神の民はキリストの御国の民であり、キリストのための「新しい一人の人」なのです。真の意味でのエクレシヤ・教会の完成のために、私たちは「キリストにあってひとつ」とされる日を迎えます。ハレルヤ。

「二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためです」(エペソ2:15)

祈り

主よ、あなたの大切な枝である「ユダヤ人会衆」への祈りと愛を私たちのうちに起こしてください。イスラエルに対する正しい理解を与え、イスラエルの回復のために執り成す心を与えてください。

                                      

     

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