39 ロ−マ人の手紙  題 「逆転の発想 失敗が富となる」 
2003/10/4

聖書箇所 ロマ11:11−15

「かえって彼らの違反によって救いが異邦人に及んだのです。それはイスラエルにねたみを起こさせるためです。」(11)  


聖書とイスラエル(8)


神殿の丘
                      

  

この世のビシネス界では、自分や他の人々の失敗から多くのことを学ぼうとする「失敗学」が注目されています。成功したことよりも失敗したことの中に、多くの真理が隠されていると、失敗の価値が見直されています。ユダヤ人の失敗からパウロもまた神の御心を多くそして深く学んだ一人でした。

1イスラエルは捨てられてはいない。

イスラエルはキリストにつまずき、神が遣わされた救い主を信じようとしない不信仰という最大の罪を犯しました。不信仰の本質はキリストを拒むことです。

「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

(ヨハネ1:11−12)

しかしそんなイスラエルでしたが、断じて捨てられてはいません。神の召しと賜物とは変らないからです。歴史的証拠としてあらゆる時代に、少数の「残された者」がつねに存在しました。地が暴虐で満ち洪水で滅ぼされるときノアと8人の家族は箱舟に入り救われました。ロトはソドムの町の滅亡から救出され残されました。ナイル川のワニのえさになって当然だったモーセは王女に拾われ、エジプトの王宮の中に残されました。モーセが約束の地に入れないときヨシュアが残され、後継者となり民をカナンの地に導きいれました。預言者エリヤの時代には、王妃イザベルが庇護するペリシテ人の神バールにひざまずかなかった7000人もの人々が残されていました。バビロンに捕らわれながら信仰を守ったダニエルたちが残され、絶望の淵にいる民を勇気付けました。ぺルシャ王宮に嫁いだエステルやモルデカイが残され、民族の滅亡を救いました。

キリストの誕生に際し、神殿にはシメオンやアンナのような老信徒が残され、「御民イスラエルの栄光」と幼子イエスを祝福しました。そしてイエス様を信じた120人のお弟子たち、さらにパウロの宣教を助け続けたアクラやプリスキラのようなユダヤ人夫婦など、かれらもみな残された者たちでした。多くのユダヤ人がつまずいても、それでもイスラエルは「見捨てられていません」、なぜなら神さまはどの時代にも、ご自分に忠実な「残れる民」をこのように備えてくださっているからです。

救われていない大多数の者に目を向けて失望するのでなく、救われている少数のものに目を向けて「神の恵みの選び」に感謝したいものです。ここには信仰的な逆転の発想があります。

マイマス面のみを数えるのでなく、プラス面をしっかりと数える力を持つことが特に信仰生活では大切です。できていないことにではなくできていることに目を向け認めましょう。得ていないことやうしなったことにではなく、今与えられていることを感謝しましょう。

困難に直面するとき、弱さを覚えるとき、無力さを感じるとき、次のような祈りをささげてみませんか。

大事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
より偉大なことができるようにと健康を求めたのに、より良きことができるようにと病弱を与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞きとどけられた
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ

(ニュ-ヨ−ク州立大学 リハビテ−ションセンタ− 病者の祈り)

日本の宣教もしかり。全人口の1割にも満たない少数のクリスチャンですが、わたしたちは日本の地で今この時代に、「残されている」かけがえのない存在です。神さまの「取って置きの」特別な存在であることを意味します。行いが十分に伴わなくても、信仰の成長が遅々としたものであっても、調子が悪くて不信仰であっても、キリストを信じて告白して、キリストの名においてバプテスマを受け、キリストに結合され、永遠のいのちをすでにいただき、神の子とされた、恵の事実において、私たちは「特別な存在」とされているのです。

2イスラエルの不信仰は異邦人の救い

パウロはイスラエルの失敗から2つの神のご計画を知らされました。

第1に、彼らの不信仰が世の富となること、つまりユダヤ人を中心にした伝道から異邦人への世界宣教の扉が開かれたことです。アジアのアンテオケのユダヤ人会堂でキリストの救いを伝えたパウロにユダヤ人会衆から激しい怒りが向けられ、ユダヤ人の反発は頂点に達していました。「そこでパウロとバルナバは、はっきりとこう宣言した。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます。」(使徒13:46)

こうして異邦人世界に福音が伝えられる恵みと機会が用意され、パウロとバルナバは異邦人への宣教師として派遣されたのでした。神のなさることは「逆転の発想」と表現できることばかりです。

第2に、イスラエルがしっとして奮起すること、つまり「自分たちが本来の神の民」であることを自覚し神に立ち返ることを促すためでした。異邦人が神に愛されている姿を見て、イエスをイスラエルのメシヤ、救い主として信じ、告白し、キリストの名によってバプテスマを受け、キリストにあって民族的に回心するためです。ねたみを覚えるというのは、見方をかえればそれほど愛を求めていることにほかなりません。お母さんが赤ちゃんばかり世話するのを見て兄弟がねたましく思うのは、自分も愛されたい、できれば愛を独占したいという思いがあるからです。・神は、愛をイスラエルの回復の動機にしたのでした。もっと積極的な表現をすれば、「愛こそが宣教の力」なのです。

パウロの時代でさえユダヤ人が「ナザレのイエスを約束されたメシヤ」と信じることは困難でした。十字架で異邦人によって殺されてゆく無力なメシヤなどは「ユダヤ民族の救世主」としてとうてい受け入れられなかったからでした。さらにユダヤ人たちには十字架のキリストを受け入れられない歴史的トラウマがあります。中世カトリック教会の時代に各地で迫害が繰り返されました。キリストの名の下で十字軍が結成されたときには遠征先で100万人のユダヤ人が大量虐殺された記録があります。ですからユダヤ人にとって赦しと和解のしるしである「十字架」は殺戮、流血、恐怖の対象でしかありません。それほど深い民族的な傷を受けています。そんないまわしい負の遺産をもつユダヤ人が「十字架」の救いを信じる異邦人クリスチャンをみて「ねたみや嫉妬」を起こすのはよほどのことがなければありえないことです。ユダヤ人がねたみをおこすとするならば、それは私たちがキリストの愛に満たされ、互いに愛し合い、その愛をもって互いに仕えあう姿を見るときです。イエス様は互いに愛し合うことが「神の愛を世に証する」最高の手段であることを教えてくださいました。

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのようにあなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34−35)

帰還する貧しいユダヤ人を支援するブリッジスの働きを支援することや、観光客が激減して経済的に苦境に立っているイスラエルを旅行者が訪問することなども、クリスチャンの愛、キリストの愛を伝える有意義な伝達手段といえます。

ユダヤ人の不信仰は異邦人への宣教の扉を開く機会となりました。なんとあざやかな神の逆転的御支配でしょうか。ローマ帝国そしてヨーロッパ大陸そしてアメリカへと拡大したキリスト教ですが、いまやアジアが欧米のクリスチャン人口を上回りました。そしてまたユダヤ人クリスチャンの数が着実に増えてきています。ここでも逆転劇が始まっています。異邦人の救いが完成するとき、再びイスラエルがみな救われる逆転劇がはじまり、キリストの再臨を世界は待つことになります。

私たちの人生に失敗やつまずきがあったとしても、主に信頼して歩み続ける者の人生は恵による逆転を繰り返し経験することでしょう。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8−9)

祈り

困難に直面するとき、弱さを覚えるとき、無力さを感じるとき、
最善にかえてくださる神の恵みを覚えるものとしてください。

                                      

     

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