3 ロ−マ人の手紙  題 「私は福音を恥としない」    2002・10・20

「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」 
(ロマ1:14−16) 

先週、私たちはロマ教会のクリスチャンに対してパウロがどのように深い敬意を払っていたかを学びました。そして「神に愛され、召され、聖徒とされ」た、すべてのクリスチャンは、偉大な贈り主である神様の圧倒的な恵みの受け取り手とされているという霊的な祝福について学びました。今日の箇所で、パウロは異邦人への使徒としてキリストから委ねられた使命である、「福音宣教への情熱」を語っています。

パウロにとって、福音は、神様に「返さなければならない負債」(14)であり、ユダヤ人をはじめすべての異邦人を「救いに至らしめる神の力」(16)でした。それゆえに「福音を恥としませんでした」(16)。恥とは思わないという表現は、消極的に響きますが、「誇りとする」という意味の逆説的表現と言えます。パウロはこのように福音の宣教に全生涯をかけて神に仕えました。何がパウロをそれほど強く動かしたのでしょうか。

1 福音は、返さなければならない負債

パウロは「私には返さなければならない負債」、つまり借金があると言いました。借金を返さなかったり、ふみ倒せば犯罪となりますが、いったいパウロは神様に何をどれほど借金したというのでしょう。

パウロはかつてサウロというユダヤ名で生きていたとき、ユダヤ教の若き指導者の一人でした。キリスト教会は神への冒涜者たちの群れだと決めつけ、激しく迫害し多くのクリスチャンを傷つけ死にまで追いやった張本人でした。憎まれるべき人間でした。ところがよみがえられたキリストは迫害者サウロをとらえ劇的な回心に導きました。神の子たちを手にかけた大罪が赦され、無力な罪の奴隷状況から解放され、神の子とされました。そのために、神の御子イエスキリストの十字架の死という尊い犠牲が払われた事実を、聖霊が真理を啓示してくださり心の目が開かれたとき、パウロは初めて理解できました。

当時、一人の奴隷を解放するためには銀貨30枚が必要でした。しかし、一人の罪人が神の怒りと裁きから救われ、死と滅びから解放されるために、御子の尊い血といのちが支払われたというのです。この驚くべき神の恵みの事実をパウロは「福音」と呼びました。神がイエスキリストを通して人類にもたらしてくださった神からの喜びの知らせだったからです。

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。」
(エペソ1:7−9)

パウロは「私は福音を恥とは思わない」と言いましたが、そこには、「神様は私のような罪人さえ恥とは思わず、むしろ深く愛してくださり、尊いキリストの十字架の救いに招いてくださった。」という、神の恵みに対する深い個人的な感謝がありました。

かつてイエス様がパリサイ人シモンの家に招かれて食事をされていたとき、一人の女性が部屋に入りイエス様の足元にすわり、高価な香油の入った壺を割り、自分の神の毛をほどいてイエス様の足をぬぐいました(ルカ7:36−47)。彼女は誰もがその行いを知っている遊女でした。罪深い女と軽蔑されていました。家の主人であるシモンは晴れの席にこんな女が同席することを恥と思いました。イエス様が神の子ならばこの女の正体を見破って、即刻追い出されるはずだと考えていました。そうされないイエス様に不満を募らせていました。けれどもイエス様は彼女のささげる奉仕を拒まれず、喜んで受け入れ、彼女の信仰を賞賛し、さらに、「この女性は多く赦されたから多く愛したのです」とシモンを諭しました。

多くの罪を赦された者は多く愛することを願います。罪深い者を恥と思わず受け入れてくださったお方に対してどうして感謝しないでおれるでしょうか。

パウロはキリストの十字架の恵みを知ったとき、深い感謝にとらえられました。のみならずこの感謝は、未だに救いを知らない人々への重荷、イエスキリストの十字架の罪の赦しを知らない人々への宣教という、新しい重荷となったのです。神の名を知らない異邦人とキリストの贖いを信じようとしないユダヤ人への新しい愛の負債となりました。パウロは神様から頂いた恵みを神様にお返しすることを、福音宣教という形であらわしたのです。小さなしずくの一滴一滴が集まり次第に大きな川の流れとなってゆくように、イエス様の恵みを経験した一人一人が身近なところで、友人や家族に対して小さな証しや愛の奉仕を重ねてゆくことによって、教会の中に福音宣教という大きな川の流れが創られてゆくのです。

神様は恵みに富んだ豊かな贈り主ですから、お返しや見返りなどお求めになりません。私たちは神の恵みの受け取り手とされているのですから感謝して頂くだけ頂いたらいいのです。けれども私たちはただもらうだけではそのうち気がすまなくなります。義理や義務ではなく、感謝を込めてお返しをしたくなるものです。神様への心からの感謝のお返しが、日曜日の朝ごとの礼拝であり、福音宣教に仕えることではないでしょうか。こうして教会は福音を誇りとし、十字架の恵みを高く掲げ、復活の希望に輝く、礼拝の共同体そして宣教の共同体として、神様によってこの世に置かれているのです。

2 福音は救いを与える神の力

救いの恵みはパウロにとって福音を宣教する強い動機となりました。さらにパウロには福音を宣教する大きな目的がありました。宣教を通して、御国の民を全世界から「召集する」ことです。御国の完成のためには、神の民が召集される必要があります。福音を聞いて信じた人々は赦しといのちを受け、やがて来る「神の国」の民とされます。その結果、御国が「完成」します。このように、福音の宣教を通して教会は、神のご計画に仕えてゆくのです。福音の宣教と神の国の完成とは深く関係しています。伝道することによって人々をキリストによる神との和解に招き、神の民に加え、神の国の完成に仕えるのです。福音の宣教は、神の民を招集することを目的としていることをしっかりと理解しなければなりません。

主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い、彼らを国々から、東から、西から、北から、南から、集められた。」(詩107:2−3)

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」
               (ガラテヤ3:27−28)

 救いと訳されたことばswthria は「メシア王国における永遠の救いを現す」と聖書学者によって定義されています。松木冶三郎師は、「この言葉は根本的にはアポ−レイアapwleia(破滅 喪失 滅び)と対立します。」と語っています。救いは神の怒りと審判と滅びからの解放と理解され、救いの完全な実現は終末の日におけるキリストの再臨によって完成します。ですから、福音が信じる者にもたらす救いは、個人的な魂の救いという意味とともに、はるかにスケールの大きい客観的な「神の国の完成」という終末論的救済を意味していると考えられます。

 もちろんこのような終末的な救済は並みの力で実現できるものではありません。一人の人間の魂を砕き、人生の目的や価値を転換させ、新しい霊的な誕生に導き、解放と救いをもらすのは神の奇跡的な力以外には不可能です。ましてやサタンの闇の主権を打ち砕き、神の国を完成に至らしめることは、限りある人間の力ではもはや到底不可能なことです。救いを全人類にもたらす神の全能の力をパウロはdunamisと表現しました。かつてノ−ベルが岩を木っ端微塵に打ち砕く破壊力を持つ火薬を発明したとき、聖書に記されている偉大な力、デュナミスからダイナマイトと命名した話は有名ですが、それほどの力が福音にはあるのです。

 教会は何のために伝道するのでしょう。私たちが宣教する目的はどこにあるのでしょう。教会の勢力を拡大拡張するためでしょうか。大教会を作って誇るためでしょうか、人間的な達成感や満足を味わうためでしょうか。設備が整い心地よい礼拝を奉げるためでしょうか。もし目的がそのような低いものであれば、40人ぐらいの教会になったときから、教会は伝道することをやめてゆきます。なぜならばこれ以上大きくなる必要を感じないからです。人数が増えれば組織も必要となり、交わりも薄くなり、人間関係も複雑になり、家庭的な雰囲気が薄まってしまうから、伝道への情熱が無意識のうちに下がってゆきます。

教会が熱心に伝道する目的、日本人以外の人々のもとに宣教師を派遣する目的、さらにユダヤ人たちがイエスをメシアと告白し、神の民として回復してゆくためにユダヤ人伝道を支援しようとする目的は、神の民の終末的な回復と召集に仕えることにあります。このような目的を持つ教会の宣教は、「神の国が完成する時」まで休むことなく続けられます。神の国の完成の日まで私たちは福音を宣教し、人々をイエスキリストの十字架の恵みに招き続けてゆくことによって、やがて来る御国の民を「東から西から呼び集め」「キリストにあって一つ」としてゆく神のみこころに仕えてゆくのです。これはなんと光栄に満ちたビジョンでしょうか。私たち一人一人はこのような神のご計画に仕えるために、この時代にあって召されたのです。

 先週、NHKのプロジェクトXという番組で、中国のゴビ砂漠の一角、四国ほどの大きさのクブラ砂漠にポプラの木を300万本植林し、砂漠を緑の衣で覆うという壮大な計画に取り組んだ、遠山正瑛博士と5000人のボランティアたちの活動が放映されていました。70度を超える灼熱の不毛の土地、襲い掛かる砂嵐や洪水の試練に耐えて植林を続け、ついに10年後に緑の森につくりかえることに成功しました。砂漠にポプラの森が誕生し、森には動物が住み、岸辺には水鳥が舞い、畑ではカボチャ・トウモロコシが収穫できるようになりました。森と動物と人間との共存が可能となったのです。

指導した博士は、95歳の今も「後、100年、200年はかかる。でもやらなければ何もはじまらない。考えているだけでは何も進まない。」とにっこりと微笑んでおられました。まだまだ先を見つめておられました。目的をもって生きる人々には輝きがあります。会社の業績やお金儲けや自分のプライドだけに生きるようなときには見出せなかった真の喜びと満足が、砂漠に森を創るというビジョンを共有したボランティア活動に加わった人々の中にあふれていました。

 人生を生きるには、目的が必要です。自分の欲求や願望をかなえる自己実現的目的もその人を確かに満足させることができます。もしそうであるならば、さらに大きな目的、しかも自分のためにではなく、ゴビ砂漠を緑の森に変えようというような壮大な目的、人はそれをビジョンあるいは夢とよびますが、そのような大きな目的にともに参加し仕えてゆこうとするときに、力は限りなくひきだされ、どんな試練や国難も乗り越えてゆくことができる力がわきあがるのではないでしょうか。どのような犠牲も惜しくないと心が満たされるのではないでしょうか。

 教会には「福音を宣教する」という神様からの働きが託されました。教会が伝道する目的は、福音を聞いて信じるすべての人々が、何の差別も区別もされることなく罪の赦しと永遠の命を受け、聖霊の命と力の注ぎにあずかり、その「御国の民を招集する」ことによって、神の国の完成に仕えることにあります。このことをしっかりと自覚したいと思います。

 私たちは毎週、主の祈りを礼拝の最後にささげ、「御国が来ますように」と祈ります。聖徒の交わり、礼拝の共同体である教会は、この主の祈りをひとつ心で祈ることによって、福音を宣教する教会として、「御国の完成」という史上最大の目的、神の永遠のご計画の完成を、待ち望みつつお仕えすることを告白しているのです。その祈りに対して、「主イエスの恵み、父の愛、聖霊の交わり」という神様からの祝福が注がれ、ひとひとりが世に派遣されてまいります。こうして「福音を宣教する教会」は、一方では「祈りの教会」としていよいよ主との交わりを深めてゆくのです。


                    祈り

父なる神様、あなたの永遠の救いのご計画、御国の完成のために、神の国の民を招集する宣教のみわざを小さな群れである私たちの教会にも託してくださっていることを感謝します。福音を宣教しイエス様を証しすることに恐れや恥かしさを覚えてしまう私たちであることを告白し悔い改めます。御国の完成という壮大で希望に満ちた神の力あるみわざに参加できる喜びと誇りでいよいよ私たちの心を満たしてください。ア−メン

     

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