34 ロ−マ人の手紙  題 「神の手の中の器」 2003/8/31

         

聖書箇所 ロマ9:19−24

「陶器を作る者は同じ土のかたまりから尊いことに用いる器でも、またつまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないでしょうか」(21)  


聖書とイスラエル(3)


神殿の丘

 今日の礼拝では、子供たちが粘土細工をしています。もし今ご自身を陶器に例えるならば、自分はどんな陶器であるとイメージできるでしょうか。どんぶり、お茶碗、お皿、つけもの壺、小さなはしおきなど・・。

ここにコヒーカップがあります。カップ自体の材質、デザインの美しさ、絵柄のおしゃれ度などが最初の評価になります。第2に、このカップはいくつ作られたのかも評価になります。世界に一つしかないとなると価値は上がります。いつの時代に作られたかも大きなポイントになります。第3にカップのなかに何が注がれるかで評価されます。最高級品のキリマンジャロコヒーが注がれれば値打ちが出ます。この中に味噌汁でもいれられたのではたまりません。第4に誰が所有しているかも大事です。木村拓也愛用のカップとなれば価値がでます。第5に、このカップは誰が作ったのかで価値が大きく代わってきます。このように一つのカップに対しても様々な角度や視点から価値をはかることができます。

今日の箇所で、神と人間の関係が、陶器師と陶器のたとえで語られますが、ここでは陶器そのものの価値、どんな材質、デザイン、絵柄、大きさは問題とされません。むしろ、「誰が作り、誰のものであるか」が問われています。

1 陶器師としての神の主権

ユダヤ人の選びという大きなテーマを取り扱う中で、パウロは神のみこころを語るのに、「陶器師」のたとえを用いました。陶器をつくる人は目的に応じてさまざまな器をつくり、気に入るまで何度も自由に思いのままつくりなおし、完成をめざします。

宇治から車で1時間も走れば「信楽焼き」の産地を訪ねることができます。陶器を製作する職人さんたちは同じ粘土から高価なお茶碗や花瓶もつくれば、たぬきやかえるまでつくりだすことができます。できが悪ければ粘土をもう一度こね、ろくろをまわします。焼き具合が悪ければせっかく焼きあがったお皿でも割ってしまいます。すべては陶器師のみこころのままに生み出されます。できあがった作品が「なんで俺はたぬきなんや」「なんで私がかえるなの。アマガエルならまだしもひきがえるなんて!」と文句は言いません。このたとえは、作品の価値や尊さを教えるたとえではありません。作品にたいする作者の絶対的立場を教える例えとして用いられ、創造主であり主権者である神と、その被造物に過ぎない土の器である私たちとの根本的関係を教えています。

エレミヤも神様から陶器師の家に行って学ぶように導かれました。陶器師が作品を作りす様子を見せて、「粘土が陶器氏の手の中に在るようにイスラエルの家よ、あなた方もわたしの手の中にある。」(エレ18:6)と語りました。神はご自分の民を自由にとりあつかう権利をもっておられることをエレミヤに教えたのです。

神との関係の根本は、「神は創造主であり、私たちは神の前における土の器」であるという自己理解にあります。その根本的なありかたは「礼拝」に集約されます。旧約的ルーツをもつユダヤ教やイスラム教では、礼拝の基本姿勢は、大地に身を投げ出して、地に伏せる姿をとります。この姿勢を通して「創造主の前における土くれ」に過ぎませんとの、真の謙遜と信仰が内側から体験的に生まれるのです。皆さんときどき家庭で、畳に正座して身を伏せて「主よ、私をあわれみ祝してください」と祈って見てください。イスに座って礼拝するのとは異なる、厳かさを経験されることでしょう。かつてアブラハムはロトのために執り成し祈るとき、「わたしはちりや灰に過ぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」(創18:27)と地に伏しました。自分の中でごちゃごちゃ言ってるなと思うようなとき、地にひれ伏してみましょう。真の礼拝者は、神の前に、ちり、灰、土の器に過ぎないことを自覚しつつ進みでるのです。

2 神の作品としての、二つの器

さて、パウロはここで神がつくられた二つの器を示しています。

1つは、本来ならば壊され投げ捨てられるはずの「怒りの器」。1つは神の豊かな栄光を知らせるための「憐れみの器」。

投げ捨てられるはずの怒りの器は、意外にも投げ捨てられずに「豊かな寛容をもって忍耐して」保存されています。これは、キリストを受け入れないユダヤ人たち、不信仰なイスラエルを指しているとおもえますが、彼らには神の怒りと裁きではなく、「豊かな寛容と忍耐」が注がれているのです。なぜでしょう、神がアブラハム、イサク、ヤコブに与えたお約束の故です。「神の召しと賜物とは代わることがありません」(11:29)。ご自分の「宝の民」と呼んだイスラエルをなお哀れみ、寛容さをもって、回復を願われているのです。神がご自身の民を退けてしまわれることは決して、「絶対にない」(11:1)からです。

どんなに時代を経ても、イスラエルには「豊かな寛容と忍耐」が注がれており、決定的な怒りと裁きから守られています。これがイスラエル民族の特徴といえます。歴史がその証人となりました。第2次大戦前、世界に1800万人いたユダヤ人は1/3に当たる600万人がナチスの手によって虐殺されるという民族滅亡の危機を経験しましたが、最大の試練を経て国家再建という最大の神の祝福を受けました。むろん怒りと裁きが絶無ではありません。終わりの日の最後の裁きにおいては、キリストをメシヤとして受け入れないユダヤ人の上に神の怒りは激しく臨むことでしょう。

一方、神の豊かな栄光を知らされている「憐れみの器」には、ユダヤ人ばかりでなく異邦人も含まれています。憐れみの器は、神がキリストにあって「召して」下さった人々、キリストに属するユダヤ人と異邦人を指します。彼らが「憐れみの器」と呼ばれるのは、キリストの十字架の赦しの下におかれ、罪と滅びから救われたからです。彼らが救われたのは、「ただ神の恵みにより、キリストイエスによる贖いにゆえに価なしに義と認められた」(ロマ3:24)からであり、何一つ行いと業によらなかったからです。

憐れみの器の特長は何よりも「神の豊かな栄光」がますます知らされることです。なぜなら、彼らはすでに約束されていたメシヤを知り、救い主であるキリストを知り、キリストにある神の栄光を経験しているからです。キリストの御霊を通して、神の国の幸いを前倒し的に豊かに経験させてくださるのです。クリスチャンになった人々は「もっと早くクリスチャンになっていればよかった」と共通して証しすることでしょう。

最後に、憐れみの器であるわたしたちに何が求められているでしょうか。「信仰の従順さ」です。パウロは「あらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすために」(1:5)使徒の勤めを受けたと語っています。神様から豊かにあわれんでいただいた者が、どうして「ああしてくれ、こうしてくれ」と要求ばかりを叫ぶことができるでしょうか。あわれんでいただいた者にふさわしい応答は、感謝と従順さです。

                                         

祈り

陶器師の手の中の土の器、神様のあわれみの器、そんな自らを今、謙虚な心で想い起こさせてください。そしてあなたへの感謝をあふれさせてください。

                                      

     

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